大統領暗殺事件
アントニオ・ホセ・デ・スクレ
Antonio José de Sucre
(1795年2月3日 – 1830年6月4日)
概要
南アメリカの諸国をスペインから独立に導いた軍人、政治家。
第二代ボリビア大統領。
初代シモン・ボリバルが名目的な立場のみだったので事実上の初代。
シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも)の部下で良き理解者としても知られる。
略歴
ベネズエラ東部のクマナで父ビセンテ・デ・スクレと母マリア・マヌエラ・デ・アルカラの間に1795年2月3日に生まれる。
幼くして母をなくす。
代々軍人の家系で、子供の頃から軍事教育を受け、要塞建築と砲術の知識を身に付けた。
スペイン領アメリカの独立戦争の勃発とともに独立派の軍に入り、士官としてベネズエラ東部で戦歴を重ねた。
1819年に准将になり、1820年にはスペイン軍とコロンビア(大コロンビア)軍の休戦にあたって戦争規制条約を結んだ。
1821年にエクアドルの独立派の救援に赴き、翌年ピチンチャの戦いでこの地のスペイン軍を破った。
1823年からはペルーの独立派を援け、1824年にアヤクーチョの戦いで南米独立戦争の最終的な勝利を決した。
この戦功で大元帥になった。
ボリバルとともにボリビアの建国にあたり、1826年から1828年まで同国の大統領を務めた。
暗殺
スクレは妻が待つ当時コロンビア領だったキトに向かい、その地に居を構え、妻の財産に頼って暮らすことにした。
政治的には一貫してボリバルに味方したが、ボリバルの独裁化を好まず、自身の政治関与にも消極的だった。
ボリバルはスクレを自身の後継者に指名しようと考えていたが、スクレはこの任を拒んだ。
しかし1828年にペルーがエクアドルの領有をねらって軍を集結させたため、再びコロンビア陸軍の指揮をとった。
総司令官のラマルをはじめとするペルー軍の指揮官の多くは、独立戦争でスクレの部下として戦った者たちであった。
信頼の厚い人だったんだね。
倍近い兵力で侵攻したペルー軍は、1829年2月27日のタルキの戦いでスクレに敗れて壊滅した。
7月10日に娘のテレサが生まれた。
スクレは故郷のクマナで国会議員に選ばれたため、妻子を残して11月に首都ボゴタに向けて発った。
1830年1月20日に発足した議会で、スクレは国会議長になった。
このとき既にベネズエラはホセ・アントニオ・パエスの下で分離の動きを明らかにしていた。
スクレはパエスを説得するためカラカスに向かったが、パエスは会談を拒んでスクレを国境の町ククタで足止めした。
スクレはあきらめてボゴタに戻り、ボリバル後の新大統領就任を見届けてから帰郷の旅についた。
その旅の途中の1830年6月4日、スクレの一行は森の中で待ち伏せた複数の暗殺者に狙撃された。
スクレは頭に弾を受けて即死した。
犯人は不明だったが、現場付近を管轄としていた軍人政治家のホセ・マリア・オバンドが関与を疑われた。
オバンドはペルーに逃亡したがすぐに復帰し、1831年から1832年と1853年から1854年の2度にわたってヌエバグラナダの大統領を務めた。
オバンドは、自分は無実で、当時エクアドルの分離を画策していたフアン・ホセ・フローレス(エクアドルの初代大統領)が犯人だと主張した。
1842年に実行犯が判明し、アポリナル・モリリョらが逮捕され、処刑された。
モリリョはオバンドの指示によると供述したが、裁判所はその証言を採用しなかった。
結局、黒幕はだれ?
こういう事はいつも闇の中…。
豆知識
スクレの名前はボリビアの首都スクレとなり、生地クマナのある地域もスクレ州になった。
エクアドルの旧通貨の単位もスクレであった。
1994年から1998年まで発行されていたベネズエラの旧2000ボリバル紙幣に肖像が使用されていた。
抜粋:http://tiny.cc/4mc0yx(wikipedia)
PR