アンドリュー・ジャクソン生誕日
Andrew Jackson 1767年3月15日 – 1845年6月8日
アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主で、第7代アメリカ合衆国大統領。
ジャクソンは民主党所属としては初の大統領であり、貴族生まれでない最初の大統領。
「オールド・ヒッコリー」の愛称で呼ばれた。
「アメリカン・フロンティア」に暮らし、独立13州に関係しなかった最初の大統領。
米英戦争における活躍をきっかけに大統領になり、任期中の強権ぶりから「アンドリュー1世」とも揶揄された程であった。
アメリカ独立戦争と南北戦争の間、その時代は「エイジ・オブ・ジャクソン」「ジャクソン・エラ」としばしば呼ばれた。
史上唯一、議会から不信任決議をされた大統領であり、またアメリカ大統領史上初の暗殺の標的になったが未遂に終わった。
夫人のレイチェル・ジャクソン(第7代アメリカ合衆国のファーストレディ)は夫が大統領に就任する2ヶ月前に急死したが、ジャクソンは彼女の死の原因になったとして政敵のジョン・クインシー・アダムズとその支持者を激しく非難した。
邸宅を構えたハーミテージはアメリカ合衆国国定歴史建造物に登録されている。
インディアンに対する姿勢
ジャクソンは立身出世のきっかけとなった米英戦争においてインディアンの掃討で活躍していたように、彼の目指す民主主義は白人のためのみのものであった。
ジャクソンは保留地(Reservation)をはじめとする強制移住政策を推し進めた。
ジャクソンが定めたインディアン強制移住法は、インディアンから強制的に土地を収奪するもので、この法律によってインディアンの多くは大陸西部へと追いやられた。
このインディアン強制移住法は違憲であるという判決を下した連邦最高裁判所長官ジョン・マーシャルに対し、ジャクソンは
「マーシャルがこの判決を下したのだ。だからマーシャルにこの判決を実行させてみようではないか」
と嘯き、平然と強制移住法を施行した。
ジャクソンは、インディアンは白人とは相いれない存在とし、1833年には議会での一般教書演説で、
以下のような演説を行った。
インディアン問題に関する私の確信はもはや揺るぎない。
インディアン部族がわれわれの定住地に囲まれ、我々の市民と接触し共存するなど不可能だ。
やつらには知性も勤勉さも道義的習慣さえない。
やつらには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしないやつらは環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。
これまでのインディアンの運命がそうだったように、インディアンたちが消滅しなければならない事態が避けられない場合、彼らは我々白人の領土の外へ出ていくことが必要だ。
その場合、我々が求める新しい関係に沿った政治体制を彼らが受け入れた場合のみ、これは可能となるのだ。
米英戦争とインディアンへの大虐殺
ジャクソンは1801年にテネシー州市民軍の大佐として指揮官となり、おもにインディアン民族の徹底虐殺によって軍歴を積み重ねることとなった。
1812年の米英戦争でテクムセらショーニー族インディアンの抵抗戦は、ショーニー族と同じく白人に領土を侵犯された北アラバマとジョージアのクリーク族を蜂起させ、クリーク族は白人入植者へ攻撃を始めた。
フォート・ミムズの虐殺で400名の白人入植者が殺されたのを機にアメリカ陸軍はクリーク族を攻撃、クリーク戦争が始まった。
ジャクソンはアメリカ陸軍を指揮したが、その配下にはテネシーの白人民兵だけでなく、米軍と同盟を組んだチェロキー族、チョクトー族および南部のクリーク族が含まれた。
ジャクソンは1814年のホースシュー・ベンドの戦いで、クリーク族の伝統派抵抗戦戦士集団の赤い棒(レッド・スティックス)を打ち破った。
「赤い棒」を始め、約800名のクリーク族インディアンが虐殺された。
ジャクソンは投降したウィリアム・ウェザーフォード酋長を助命した。
サム・ヒューストンとデヴィッド・クロケットがこの戦役に従軍、ジャクソンの下で戦っている。
勝利の後ジャクソンはクリーク族にジャクソン砦条約への調印を強制した。
ジャクソンに協力して戦ったクリーク族では協約違反として酋長たちが抗議したが、結果はクリーク族が93,000㎢の領土をアメリカ合衆国政府に割譲させられることになった。
ジャクソンはこの功績で少将に任命された。
この戦争においては、クリーク族に対してジャクソン大佐は徹底的な大量虐殺を行った。
男も女も、子供であってもジャクソンは容赦せず皆殺しにした。
児童も含む約800名のクリーク族を殺し、殺したインディアンの死体から鼻を削ぎとらせて戦利品とさせた。
女性や児童も含むインディアンの死体からは肉が剥ぎ取られ、それは細く切られ、天日で干して彼らの軍馬の手綱として再利用された。
また、「女を生き残らせるとまた部族が増える」との考えから、特に女(乳幼児、女児を含む)を徹底的に殺すよう全軍に命じた。
これらはすべてアンドリュー・ジャクソンの指揮によって行われたものである。
米英戦争におけるジャクソン
イギリス軍がニューオリンズを脅かしたとき、ジャクソンは都市の防衛を指揮し、その配下にはいくつかの西部の州および領土からの民兵が含まれた。
彼は厳しい将校ではあったが、配下の兵からは人気があった。
彼は軍隊で名声を得、森林地帯の戦場で「古いヒッコリーのように頑丈」”tough as old hickory” と呼ばれ、前述の愛称を得た。
1815年1月8日のニューオーリンズの戦いでは配下の5,000名の兵達が、7,500名以上のイギリス軍に勝利した。
この戦いでイギリス軍は負傷者2,037名、死者291名(上級将校3名を含む)、1,262が軽傷、484名が虜囚もしくは行方不明となった。
アメリカ軍は負傷者71名、死者13名、軽傷者39名、行方不明者19名であった。
この戦いでの勝利でジャクソンは全国的な名声を得ることとなった。
1815年2月27日、ジャクソンは議会感謝声明と金メダルを授与された。
セミノール戦争
ジャクソンは再び第一次セミノール戦争の間、軍役に就いた。
1817年12月、ジェームズ・モンロー大統領はジョージアでセミノール族とクリーク族を攻撃するよう命令した。
また、スペイン領フロリダが黒人逃亡奴隷の避難所になるのを防ぐことも命じた。
評論家は後にジャクソンのフロリダにおける行動が命令を逸脱していたと主張した。
彼の受けた命令は「紛争を終結させる」ことであった。
ジャクソンはこれがフロリダを制圧する最も良い方法であると信じていた。
任務に赴く前、ジャクソンはモンローに対して
「どんな手段を使っても私にそれを伝えてください…フロリダの所有は合衆国にとって望ましいでしょうし、それは60日前後で達成されるでしょう。」
との書簡を送っている。
モンローはわざとジャクソンへ国際的な否定に対して曖昧な命令を与えていた。
セミノール族はジャクソンの指揮するテネシー州義勇兵を攻撃した。
しかしながらセミノール族は自らの村を無防備のままにしたため、ジャクソンの軍は逆に村と作物を焼き払った。
そこでスペインとイギリスが密かに援助していた証拠となる手紙を発見した。
ジャクソンはイギリスとスペインがインディアンの戦いを支援する限り、アメリカ合衆国の安全は保証されないと信じていた。
そして、自らの行動は自衛のために行われると主張した。
ジャクソンは警告の威嚇射撃のみでペンサコーラを占領し、スペイン人の知事を追放した。
そして2名の英国人、ロバート・アンブリスターとアレクサンダー・アーバスノットを捕らえ、処刑した。
アーバスノットはインディアンへの支援と協力を行っていた。
ジャクソンはここでも再びインディアンに対する大量虐殺の方針を採り、女子供を優先的に殺害。
沼沢地において徹底的な焦土作戦を行った。
ジャクソンの残忍冷酷ぶりはセミノール族を震え上がらせ、彼らはジャクソンを「シャープ・ナイフ」と呼んだ。
ジャクソンに反抗する黒人逃亡奴隷はセミノール族の領土へ逃げ込み、米軍に対しセミノール族と共闘した。
第一・二次の「セミノール戦争」で、黒人たちとインディアンの混血が増え、彼らはブラック・セミノールと呼ばれるようになった。
ジャクソンのイギリス人処刑とスペイン領への侵入は国際的な問題を引き起こした。
モンロー政権の多くがジャクソンを譴責するよう求めたが、ジャクソンの行動は早くからのマニフェスト・デスティニーの信者であった国務長官のジョン・クィンシー・アダムズによって擁護された。
アダムズはジャクソンによる占領とスペイン自身の弱点を利用し、アダムズ=オニス条約でスペインにフロリダを割譲させた。
ジャクソンは軍政府長官に任命され、1821年3月10日から1821年12月31日まで同職を務めた。
大統領選
テネシー州議会は1822年にジャクソンを大統領候補に指名した。
また、再び彼を連邦上院議員に選出した。
1824年までに民主共和党は唯一機能している国民政党となった。
同党の大統領候補は非公式な幹部会議によって選出されていたが、これは不評を囲うこととなった。
1824年には民主共和党員の下院議員の大半が幹部会議をボイコットした。
出席者はウィリアム・H・クローフォード財務長官を大統領候補に、アルバート・ギャラティンを副大統領候補に支持した。
1ヶ月後のペンシルベニア州における民主共和党党員集会では、非公式な幹部会議が「国民の声」を無視して「彼[クローフォード]が普通の民主主義候補であったと偽ってアメリカ国民に確信させられるかもしれないという儚い望み」で決定したと宣言し、ジャクソンを大統領候補に指名した。
ギャラティンはジャクソンを
「正直者と軍事的栄光崇拝者のアイドルであるが、無能さと軍人らしい習慣、法律と憲法の条項を習慣的に無視する姿勢はオフィスに全く不適任である。」
と批判した。
大統領選にはジャクソン、クローフォードに加え、国務長官のジョン・クィンシー・アダムズおよび下院議長ヘンリー・クレイが候補として出馬した。
ジャクソンは一般投票で最多票を獲得したが、過半数とはならなかった。
選挙人票でも過半数を獲得できず、大統領の選出は下院にゆだねられた。
結果アダムズが大統領に選出されたが、クレイは自らの支持をアダムズの支援に与えたため、ジャクソンの支持者はこの結果を「不正な取引」として糾弾した。
大統領に就任したアダムズはクレイを国務長官に任命した。
クレイの出身州であるケンタッキー州の有権者の誰も初めはアダムズに投票せず、ジャクソンが一般投票で最多票を得たとき、クレイは人々の意志に反して個人的な政治的便宜の返礼として彼自身の判断を代用したように思われた。
しかしながら、ジャクソンの敗北は彼の政治的な信任を高めることとなった。
多くの有権者が「人々の候補」が「東の不正な貴族」によって略奪されたと考えていた。
ジャクソンは1825年10月に上院議員を辞職したが、依然大統領の座を模索していた。
テネシー州議会は再びにジャクソンを大統領候補に指名した。
ジャクソンは副大統領のジョン・カルフーン、マーティン・ヴァン・ビューレン、トーマス・リッチーを自らの陣営に引き入れた(ヴァン・ビューレンとリッチーは以前クローフォードを支持していた)。
ヴァン・ビューレンはフィラデルフィアとリッチモンドの友人からの助けを得て古い共和党を蘇らせ「民主党」という新たな名を与えた。
民主党の結成により「政党による競争を復元」し、全国的な組織を鍛え上げた。
ジャクソンの陣営はアダムズを手際よく打ち破った。
選挙戦の間、アダムズ陣営はジャクソンを「ロバ(まぬけ)jackass」と呼んだ。
ジャクソン自身はこの呼び名を好み、逆手にとる形で、しばらくの間ロバをシンボルとして使用したが、その後途絶えることとなった。
しかしながら、風刺漫画家のトーマス・ナストが後にそれを普及させ、ロバは民主党のシンボルとなった。
選挙戦は私生活の暴露など露骨なネガティブ・キャンペーンに終始した。
両候補とも個人的には運動しなかったが、支援者達は運動を組織化して行った。
両候補ともプレスにより修辞的に攻撃され、ジャクソンの妻レイチェル夫人が中傷されるに至って頂点に達した。
レイチェルはジャクソンの就任前の1828年12月22日に急死し、クリスマスイブに埋葬された。
ジャクソンは自らを侮辱した者は許すが、妻を攻撃した者は決して許さないと語った。
暗殺未遂
大統領に対して危害を加えようとする最初の試みはジャクソンに対して行われた。
ジャクソンは海軍のロバート・B・ランドルフを横領容疑で解雇するよう命じた。
1度目
1833年5月6日、ジャクソンはシグネット (USS Cygnet) に乗艦してフレデリックスバーグに向かい、ジョージ・ワシントンの母親であるマリー・ボール・ワシントンの墓の近くに建てられる記念碑の定礎式に出席することになっていた。
途中アレクサンドリアに立ち寄った際、ランドルフが現れ大統領を殴打し、現場から逃走した。
ジャクソン大統領の一行の数名が彼を追いかけたが、その中には作家のワシントン・アーヴィングも含まれた。
ジャクソンはこの一件を告発しないと決めた。
2度目
1835年1月30日、初の大統領暗殺未遂事件と考えられている出来事が国会議事堂のすぐ外で発生した。
ジャクソンがサウスカロライナ州選出下院議員のウォレン・R・デイヴィスの葬儀の後に議事堂を出ると、イギリス出身の塗装工であり失業者のリチャード・ローレンスが、群衆から飛び出したか、隠れていた柱の陰から出るかしてジャクソンにピストルを向けたものの、それは不発に終わった。
ローレンスは二番目のピストルを引き抜いたが、これも不発であった。
曇天からの湿気が2度の不発の原因だと仮定された。
ローレンスは拘束されたが、伝説ではジャクソンが自らの杖でローレンスを殴打し、自らの側近にローレンスを静止するよう促したとされる。
デヴィッド・クロケットを含む他の出席者がローレンスを制圧し、武装を解除した。
リチャード・ローレンスは射撃のいくつかの理由を医師に明かした。
彼は最近塗装業の仕事を失い、どうにかジャクソンを非難した。
彼は大統領が死ねば、「お金がより十分になるだろう」「大統領が倒れるとき、初めて上昇できる」と主張した。
最後には自身が追放されたイギリス王(リチャード3世、1485年に死去)であり、ジャクソンは単なる事務員であると主張した。
ローレンスは正気ではないと考えられ、施設に収容された。
彼の暗殺計画は決して罰せられなかった。
事件に使用されたピストルはその後、2度の不発に関する検証のためテストが行われた。
テストは2度行われたが、その都度問題なく発射された。
この結果が公表されると、多くの人々がジャクソンはアメリカ合衆国と同じく神の摂理によって守られたと信じた。
豆知識
決闘好きであり、決闘中に命中した銃弾が胸に残り彼を終始悩ませた。
英語の有名な表現であるO.K.の語源には諸説あるが、一説にはジャクソンに由来しているというものがある。
彼は正規の教育を受けておらず、間違えることもしばしばだった。
この場合も『all correct』を省略しようとして誤ったと言われている。
抜粋:http://ul.lc/5f1a(wikipedia)より