【今日の歴史】1931年4月11日の事【ドラクエ音楽と言えば】

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すぎやまこういち演説2011/6/30日本の未来を考えるシンポジウムhttp://ja.wikipedia.orgより
すぎやまこういち演説
2011/6/30
日本の未来を考えるシンポジウム
http://ja.wikipedia.orgより

すぎやまこういち生誕日

本名:椙山 浩一
1931年4月11日~
日本の作曲家、編曲家
日本作編曲家協会(JCAA)常任理事
日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員
ドラゴンクエストシリーズ – シリーズ内のほぼ全ての作品を担当。

経歴
東京府東京市下谷区(現在の台東区)生まれ。

祖母が子守唄として讃美歌を歌っていたことや、両親が音楽好きだったことから、幼少から音楽に親しむ。

また両親がゲーム好きだったことから、物心がついた頃からゲーム好きだった。

小学校時代は父の仕事の影響で引越しが多く、1年(東京市鷹番尋常小学校)、2年-5年(清水尋常小学校)、5年-6年(市川真間小学校)と転校を繰り返す。

名古屋に住んでいた頃から鼻歌で作曲を始めるようになる。

カール・ブッセの「山のあなた」にメロディをつけて母親に譜面に起こしてもらい家族で歌っていたという。

千葉県立千葉中学校に入学するものの、戦況の悪化に伴い、大分県竹田市・岐阜県坂下町に疎開。

戦後、東京に戻るが、食糧不足から壊血病になり死にかける。

この時期、父が物々交換でベートーベンのレコードやオーケストラの楽譜を手に入れ、それを元に独学でクラシックの勉強を重ねた。

東京都立武蔵中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)2年に編入。

ここで青島幸男砂田実と知り合い、青島とは生涯の親友になる。

青島幸男氏(左)砂田実氏(右)何気ない日々の出来事Musicman-NETより
青島幸男氏(左)砂田実氏(右)
何気ない日々の出来事と
Musicman-NETより

すぎやまが級長砂田が副級長青島が問題児という関係であり、

退学寸前の大問題を起こした青島を砂田とともに職員会議に乗り込んで助けるなど迷惑を被る一方、

青島は当時クラシック一辺倒だったすぎやまにジョージ・ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』を薦め、ポップスに興味を持たせるなど。

短いながらも濃密な時間を過ごした。

新制高校の第1期生として成蹊高等学校に入学した後は音楽漬けの日々を送り、音楽部を創立。

3年の時には戦時中に活動休止していた学内オーケストラを再組織し、指揮と編曲を務める。

このオーケストラには成蹊中学校の服部克久も参加(トランペット担当)。

服部はその後もすぎやまに誘われる形でジャズバンドにも参加している。

創立100周年記念イベント(2012年5月12日)服部克久さんの指揮、成蹊⼤学管弦楽団の伴奏による、校歌斉唱www.seikei.ac.jpより
創立100周年記念イベント
(2012年5月12日)
服部克久さんの指揮、成蹊⼤学管弦楽団の伴奏
による、校歌斉唱
www.seikei.ac.jpより

またそのジャズバンドではすぎやまはベースを担当していた。

卒業が迫った頃には谷桃子バレエ団の依頼でオペラ用に「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」を作曲。

このオペラは何度も再演された。

当初は音楽大学への進学を望んでいたが、ピアノが弾けなかったことから断念し、(週刊Gallopの鈴木淑子との対談記事では「音大志望だったがお金がなかったから東大に進学した。」とも述べている。)東京大学理科II類に進学。

学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。

3年次、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ傍系進学。

しかし、教官が(授業にあまり出ない)すぎやまの顔を覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため1年留年して卒業。

卒業論文「青少年の年齢層に対するジャズブームの考察」というもので、テープ(ジャズのリズム隊を従え、実際に音を出しながらすぎやまが語るという形式)で提出した。

卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイトをしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り、引き抜かれる形で文化放送に入社。

1年報道部で務めた後、芸能部に移り、「日立コンサート」を担当。
ここで音楽業界のプロの作曲・編曲方法を直で体験したことが後の作曲家として生きることになる。

1958年「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する。

入社後
フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。

次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる『ザ・ヒットパレード』を企画。

当初は「ヒットパレード系の番組はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集にナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て放送にこぎつけた。

このいきさつは後年ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜としてドラマ化された。

戦後のショービジネスの礎を築いた渡辺晋氏www.ent-mabui.jpより
戦後のショービジネスの
礎を築いた渡辺晋氏
www.ent-mabui.jpより

当初は予算がなく狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。

弟子の橋本淳によると当時のすぎやまは「フジテレビのヒットラー」を自称していたほど強権的であり、番組に呼んだダスティ・スプリングフィールド番組直前に口パクじゃないと出演しないとゴネた際に追い返した事件は新聞でも報じられた。

上記の『おとなの漫画』『ザ・ヒットパレード』に関しては、ニュース性があり、それゆえに確実にネタ切れしないだろうという目論見で始めたこともあり、いずれも長期間続く人気番組となった。

その他、ディレクターとして『森永スパーク・ショー』『新春かくし芸大会』などを手がけた。

1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように苦慮するようになり、またJASRACとフジテレビ著作権料の支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月にフジテレビを退社した。

退社後
退職後、フリーのディレクターとしてフジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、1968年から作曲活動に専念。

作曲家としてザ・タイガース(デビュー前から関わり、彼らの命名者でもある)やザ・ピーナッツ黄金時代を支えた。

1970年代に入ると特撮音楽中盤になるとアニメ音楽を数多く手がけるようになり、1978年には劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』のBGM(サウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し、『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表。

NHK交響楽団が演奏した初のアニメ用サウンドトラックとなる。

1980年代半ばになるとゲーム音楽を手がけるようになる。

1986年『ドラゴンクエスト』の作曲を担当したのをきっかけに「ドラゴンクエストの作曲家」となり、以降ゲーム以外の仕事を自ら減らし、専らゲーム作曲家として活動。

この時期にオーケストラへの興味が増し、1987年から毎年オーケストラなどを率いて『ファミリークラシックコンサート』『「ドラゴンクエスト」コンサート』などのコンサートを行っている。
近年では自ら指揮者として出演することも多い。

2004年にはSUGIレーベルを設立。

かつて様々なレコード会社から販売されていた『ドラゴンクエスト』関連のアルバムの販売を一元化するとともに、旧作の再発や再演奏・再録音などを精力的に行っている。

人物として
名義にひらがなを使用しているのは「椙山」を読める人が少なかったため。

初期の曲の一部ではクレジットを漢字表記にしていた。

演歌について

「演歌こそ日本民族の音楽である、という権威付けは間違いである」

「音楽芸術の面から見れば、瀧廉太郎から始まりすくすくと育っていた日本の音楽文化に、暗黒時代を築いたと断言してよい」

「我々コンポーザーの間でも演歌を歌とは認めても、音楽的には優れた美しいものと認めている人は少ないのではないか」

否定的な見解を自著に記している。

趣味はクラシックカメラとゲーム(ビデオゲームに限らず様々なおもちゃ)の収集、読書と食べ歩き。

カメラの収集家としても著名で、カメラ雑誌でクラシックカメラや特殊なカメラに関する記事の執筆も手がける。

2ちゃんねらーであることを公の場で明らかにしている。

2007年9月29日の「教科書改善の会」シンポジウムにおいて、「2ちゃんねるを見ている」と発言し、会場にいた人々に「2ちゃんねるを見たことがあるか」と質問したところ、ほとんどが中年以上であったにも関わらず多数の人が手を挙げた。

さらに「アサヒる」という言葉をそのままの解釈で披露した。

ゲーム好きであり、日本カジノ学会理事、日本バックギャモン協会名誉会長などを務めている。

また、嫌煙の風潮に反発し、「喫煙文化研究会」を設立し、代表に就いている。

日本禁煙学会に反論した喫煙文化研究会togetter.comより
日本禁煙学会に反論した
喫煙文化研究会
togetter.comより

ドラクエとの関係
1985年8月にエニックス(現スクウェア・エニックス)から発売されたパソコン版ソフト『森田和郎の将棋』序盤の駒の組み方に疑問を持ったすぎやまは、同ソフトに添えられていたアンケートハガキを熱心に書いたが、投函するのが面倒になりほったらかしにしていた。

妻がそれを見つけて投函したところ、エニックスの担当者からゲーム音楽の依頼が入り、『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』の作曲を担当することになり、エニックスとコネクションが出来た。

その直後、同じくエニックスがプロデュースしていた『ドラゴンクエスト』に、内部スタッフが作った音楽の出来が良くないという事態を受けて、エニックスから依頼を受けて制作に参加。

当時の開発陣であるチュンソフトは学生のサークルの延長上にあり、初対面時は「異分子が入ってきたぞ」「よそ者だ」と警戒されたが、会話をするうちに無類のゲーム好きなことを分かってもらい、当時日本に二台しかなかったビンゴ・ピンボールにハマり仕事後数時間かけて横浜に行って遊んでいたことに話が及んだ際には尊敬のまなざしを受け、正式に作曲を依頼され、それを受諾。

ゲームの世界観「中世の騎士物語」と説明され、まずリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』が頭に浮かび、そこで「クラシック音楽をベースにしよう」と基本コンセプトが固まる。

マスターアップ直前のことであり、1週間で全ての楽曲を製作。

すぎやまはCMなどの音楽で短時間での作業の経験(最も短いもので、12時間で仕上げる依頼もあった)が豊富であったため可能な作業でもあった。

またすぎやまは「ちょうど作曲が好調な時期だったことも大きかった」としている。

「序曲」のメロディはすぐに出来、それを「54年と5分で出来た曲」(パブロ・ピカソの「1分プラス80年だ」という有名な発言に倣ったもの)と言い、それまでの54年の人生があって初めて「序曲」を生み出すことができたという言い方をしている。

また、ゲームのフィールドや戦闘中の音楽に関しては、「何百回も聞くものであるから、聞き飽きないものを心がけている」という。

以降、全シリーズの作曲のみならず開発の初期段階(企画立案の段階)からプロジェクトチームの一員として参加している。

そのため、テストプレイヤーとしてもエンディングのスタッフロールで名を連ねている。

現在でもシリーズ楽曲は交響組曲「ドラゴンクエスト」、イン・ブラスバンド、オン・ピアノ、オン・エレクトーン、弦楽四重奏、金管五重奏、吹奏楽等に編曲され、演奏楽団を自ら指揮しコンサートを行っている。

近年は東京都交響楽団などを中心にオーケストラコンサートを各地で行っている。
雅楽においては、むつのをによる演奏でとりおこなわれた。

音楽以外では、1995年9月にバレエ「ドラゴン・クエスト」がスターダンサーズ・バレエ団によって初演され、以後も数年おきに再演されている。

受賞歴
1988年

第三十回日本レコード大賞企画賞、特別企画賞受賞(交響組曲『ドラゴンクエストI・II・III』)

1988年
第三回日本ゴールドディスク大賞企画部門受賞(交響組曲『ドラゴンクエストIII』)

1990年
第五回日本ゴールドディスク大賞企画部門受賞(交響組曲『ドラゴンクエストIV』)

2003年
第二十一回JASRAC賞銅賞受賞(『亜麻色の髪の乙女』)

2004年
第二十二回JASRAC賞銅賞受賞(『亜麻色の髪の乙女』)

豆知識
日本中央競馬会 東京競馬場・中山競馬場で使用されるファンファーレ

東京競馬場・中山競馬場・福島競馬場・新潟競馬場の本馬場入場曲

(一般競走、特別競走は2007年まで、重賞競走は2009年まで使用された。またGI競走は2009年までは4場で行われる全てのGI競走で使用されたが、休止を経て2012年以降は皐月賞、オークス、日本ダービー、天皇賞(秋)、有馬記念で使用されている)

ザ・ヒットパレード
フジテレビディレクター時代に自らがテーマを作曲。

抜粋:http://tiny.cc/w56uwx(wikipedia)より

すぎやまこういち【音楽】
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