【今日の歴史】1914年(大正3年)1月12日【科学不信の碑】

【今日の歴史】1914年(大正3年)1月12日【科学不信の碑】
桜島大正噴火
桜島大正噴火

大正大噴火

1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。

流出した溶岩の体積は約1.5km3(立法キロメートル)、溶岩に覆われた面積は約9.2km2(平方キロメートル)、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。

また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)に達した。

噴火によって桜島の地盤が最大約1.5m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認された。
この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示している。

前兆
1913年(大正2年)6月29日から30日にかけて中伊集院村(現日置市)を震源として発生した弱い地震が最初の前兆現象であった。

同年12月下旬には井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因と考えられる死者が出るなどの異変が発生した。

12月24日には桜島東側海域の生け簀で魚やエビの大量死があり、海水温が上昇しているという指摘もあった。

翌1914年(大正3年)1月に入ると桜島東北部で地面の温度が上昇し、冬期にも拘わらずヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されている。

1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌11日にかけて弱い地震が頻発するようになった。
噴火開始まで微小地震400回以上、弱震が33回観測されている。

1月11日には山頂付近で岩石の崩落に伴う地鳴りが多発し、山腹において薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されている。

また、海岸のいたるところで温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする現象も報告されている。

噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子が目撃されている。

経過
1914年(大正3年)1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まった。

約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まった。

間もなく噴煙は上空3,000m以上に達し、岩石が高さ約1,000mまで吹き上げられた。

午後になると噴煙は上空10,000m以上に達し桜島全体が黒雲に覆われた。

大音響や空振を伴い断続的に爆発が繰り返された。

午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震(桜島地震)が発生し、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害があった。

1月13日午前1時頃、爆発はピークに達した。

噴出した高温の火山弾によって島内各所で火災が発生し、大量の軽石が島内及び海上に降下し、大量の火山灰が風下の大隅半島などに降り積もった。

午後5時40分に噴火口から火焔が上っている様子が観察され、午後8時14分には火口から火柱が立ち火砕流が発生し、桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落がこの火砕流によって全焼した。

午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認された。
桜島南東側の火口からも溶岩が流出した。

1月15日赤水と横山の集落が、桜島西側を流下した溶岩に覆われた。

この溶岩流は1月16日には海岸に達し、1月18日には当時海上にあった烏島が溶岩に包囲された。

一方、桜島南東側の火口から流下した溶岩も海岸に達し、噴火前には72mもの深さがあった瀬戸海峡も埋め立てられていき、1月29日桜島が大隅半島と陸続きになった

大正大噴火で陸続きになる場所
大正大噴火で陸続きになる場所

このとき瀬戸海峡付近の海水温は49℃に達した。

溶岩の進行は2月上旬に停止したが、2月中旬には桜島東側の鍋山付近に新たな火口が形成され、溶岩が流出した。

1915年(大正4年)3月、有村付近に達した溶岩の末端部において、二次溶岩の流出があった。

噴火活動は1916年(大正5年)にほぼ終息した。

避難の状況
噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1月10日夜から、住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり。

白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答であった。

それでも1月11日になると、避難を始める住民が出始めた。

桜島東部の黒神、瀬戸、脇の各集落では地域の青年会が中心となり、女性・子供・老人を優先に、牛根村、垂水村(現垂水市)方面への避難が進められた。
また、桜島北部の西道、松浦においても、青年会が中心となり、鹿児島湾北部の重富村(現姶良町)、加治木町、福山村(現霧島市)方面への避難が進められた。

一方、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は、測候所の見解を信頼する者が多かったため避難が遅れ1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となった。

しかし、西桜島村の死者は3名のみであった。

桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1m以上にもなり、船による避難は困難を極めた。

対岸の鹿児島市は、鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、東桜島村では、混乱によって海岸から転落する者や、泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次いだ

この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら、未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれている。

科学不信の碑
科学不信の碑

桜島対岸の鹿児島市内においては1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようとする人々が続出した。

鹿児島駅や武駅(現鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となった。
市内の混乱は1月17日頃まで続いた。

噴火の影響
噴火によって降り積もった火山灰は、火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神と大隅半島の一部で最大1.5m以上、桜島の他の地域でも、30cm以上の深さに達した。

火山灰などの降積に依り2mも埋まってしまった、黒神埋没鳥居
火山灰などの降積に依り2mも埋まってしまった、黒神埋没鳥居

桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物は、ほぼ全滅した。

耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住した。
移住先は種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地のほか、朝鮮半島に移住する者もあった。

災害復興のために、桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年(昭和9年)11月19日に当時の西桜島村が村営定期船の運航を開始した。

その後の桜島フェリーである。

抜粋:http://ul.lc/5af9(wikipedia)より
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