【今日の歴史】1971年12月21日の事【冤罪疑惑→DNA検査の結果】

【今日の歴史】1971年12月21日の事【冤罪疑惑→DNA検査の結果】
三浦市三崎町の海
三浦市三崎町の海

疑惑の三崎事件

三崎事件とは1971年12月に発生した殺人事件。
冤罪だとされていたが下記の通りである。

概要
1971年12月21日午後11時15分頃、神奈川県三浦市三崎町の食料品店で、店主(当時53歳)と妻(当時49歳)、娘(当時17歳)の3人が男に襲われた。

店主は1階の事務室で妻は浴室で刺されそれぞれ即死、娘は階段付近で刺されて近くに助けを求めたところで倒れ、病院で死亡する事件が発生。
2階窓から飛び降りた息子(当時14歳)が一家で唯一生き残った。

その日、横浜市で鮮魚店を経営していたA(当時44歳)が小刀を持ちながら商店を出ていくのを通行人に目撃された。
Aは逃亡したが、事件から5日後の12月26日に殺人容疑で逮捕された。

取調べから2日後に犯行を自供したが、公判では犯行を否認。

1976年9月28日に横浜地方裁判所横須賀支部はAに死刑判決を言い渡す。

控訴をするも、1984年12月18日に東京高等裁判所は控訴棄却。

1990年10月16日に最高裁判所は上告を棄却し、Aは死刑が確定した。

Aは無罪を訴え、再審を請求していたが糖尿病や高血圧を患っており、2009年9月3日収監先の東京拘置所で敗血症のため獄死。

その後第一次再審請求は2011年8月23日に横浜地裁横須賀支部(忠鉢孝史裁判長)で棄却された。
弁護側は東京高裁へ即時抗告を行う方針。

冤罪疑惑
Aの証言は以下の通り。

事件当日、Aは度々家出を繰り返していた高校生の娘を探すために自家用車で三崎町を訪れていた。
食料品店近くで路上駐車していた自家用車で仮眠を取っていたが、足音で目を覚ました時は午後11時5分だった。
車の横を「長靴を履いた、右腰に手拭をさげ、髪はオールバックで中肉中背の男」(真犯人とされる)が食料品店のシャッターを開けて入って行くのを目撃した。
その後、帰ってきた店主が路上駐車していた顔見知りだったAと会い、挨拶程度の会話をして店主は自分の食料品店に入った。

その直後、食料品店から男(真犯人とされる)が走って出てくるのを見て食料品店に入ると、店主と妻が刺殺されているのを目撃。
Aは娘と付き合っている不良仲間からの護身用として持っていた小刀を出したが、それが店の外で目撃されただけである。

他に犯人が残したゴム靴の足跡が25.5cm~26cmがAの足の長さの27cmが一致しないこと、唯一生存した息子が「もの凄い勢いで階段を駆け上がった犯人」を目撃したと証言しているが足の不自由(身体障害者手帳を所持していた)だったAと一致しない、唯一生存した息子は父親と雑談する犯人が煙草を吸うのを目撃してその煙草の吸殻が現場に残されたが血液型も不明のまま紛失となっているなどが冤罪の根拠となっている。
そのため、Aは自分が犯人ではないとして再審請求していた。
Aは死刑廃止も主張しており、「死刑囚からあなたに。」という本で「冤罪をなくすためには死刑廃止しかない。」と主張していた。

Aの死去後も再審を支援する団体の活動は続けられており、2010年3月18日には横浜地方裁判所横須賀支部は、唯一の物証であるとされる、Aが持っていた大工道具袋に付着していた血液のDNA鑑定を行うことを決定(この血液は被害者と血液型が同じであり裁判では被害者の血液とされたが、A自身は自分の血液であると主張していた)。

その後、鑑定結果により、大工道具袋の血液のDNAはAのDNAとは異なることが判明し、Aや弁護側の主張は否定された。

抜粋:http://ul.lc/591r(wikipedia)より

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