【今日の歴史】1964年12月13日の事【人物】

【今日の歴史】1964年12月13日の事【人物】
hide
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hide生誕日

hide(ヒデ、本名:松本 秀人(まつもと ひでと)、1964年12月13日 – 1998年5月2日)は、日本のミュージシャン、シンガーソングライター。X JAPANのギタリストである。
X JAPANでは大文字で「HIDE」、ソロ活動では小文字で「hide」と、表記を区別している。

概要
横須賀サーベルタイガー解散後、1987年初めに当時のXに加入。

PATAも加わって、メジャーデビュー時のメンバー構成になり、ほとんどの楽曲でリードギターを担当した。
また、一部曲の作詞および作曲も担当。

ライブ等でも独自の派手かつ奇抜なパフォーマンスやビジュアルで、YOSHIKIとはまた一味違う存在感を放った。

他のメンバーがビジュアル・メイクを止め、徐々に素顔を見せるようになる中で、HIDEだけは「ファンからどう見られるか」に徹底して拘り、ヘアースタイル、ステージ衣装にビジュアル性を重視し、独自の個性を貫き続けた。

1993年からはソロ活動も始め、作詞、作曲、ボーカル、ギター、ベース(一部曲)、プロデューサーなど、ほとんどの役割を担った。

X JAPAN解散後のソロ活動は、hide with Spread Beaver名義で行っている。

hideとツアー・メンバーによる一つのバンドに近い形態であり、hide曰く「沢田研二とエキゾチックスみたいな感じ」だという。
さらに、海外のミュージシャンとzilchを結成し、アメリカ・デビューも目論んでいた。
マリリン・マンソンからは「前座でいいからやらせてくれ」「その代わり、アメリカを周る時は一緒にやろう」と対バンを申し込まれたりもしていた(宝島社著「hideDAYS」松本裕士インタヴューより)。

解散前のXも含めてこれらの活動は基本的に並行して行われていたが、それら全てが軌道に乗り始めた矢先に死去した。

彼の没後も公式ページは更新されており、X復活後もYOSHIKIらの「HIDEを含めたX JAPAN」という意向から彼の公式ページでも他の4人と同様の内容が掲載され、復活コンサートのチケット販売も行われた。

人物として
少年時代は肥満から来るコンプレックスのため、内気で大人しい子供だったという。

祖父の「松本家から医者を出せ」という命令もあり、小学校の卒業文集の将来の夢の欄には「医者になって見放された患者さんを助けてあげたい」と綴っている。

Unitedの横山明裕とは幼稚園時代からの幼馴染で、互いにプロになってからも交流があった。

また、教育熱心な家庭であったのか、学習塾や習いごとに通う忙しい小学生であったという。
アメリカへの集団でのホームステイも経験している。
その当時を知る人は、少年時代のhideからはテレビなどで活躍するhideの姿はとても想像がつかなかったと語っている。

中学生の頃、初めて聴いたキッスのレコードに大きな衝撃を受け、ロックに目覚める。

以後は俗に言う「ロック少年」となり、様々なロックを聴き漁るようになり、その中でキッス(特にエース・フレーリー)、ザ・クラッシュ、アイアン・メイデン、ディープ・パープル、ヴァン・ヘイレン、ダムド、レッド・ツェッペリン(ジミー・ペイジ)、ジャパンなどに影響を受けた。

BOWWOWの山本恭司ファンではあるが、hideの代名詞となる「モッキンバード」は、同じBOWWOWの斉藤光浩が使用していたのが気になった事がきっかけであると語っている。

その後、エレキギターを手に入れたが当初はバンド活動はしておらず、そのまま県内屈指の進学校の高校へと進学した。

その進学した高校が「エレキ禁止」であったためにバンドを組めずにいたが、不良の溜まり場などと言われていた横須賀のどぶ板通りに出入りするようになり、そこで出会った仲間達とバンドを結成する。

このバンドがX加入以前に活動していた唯一のバンド、「サーベルタイガー」となった(正確には、中学でもバンドを組んだが形だけで音楽活動はしなかった)。

また、「おばあちゃん子」であったhideは美容院を営んでいた祖母からの影響を少なからず受けている。

Xデビュー当時は祖母のサリーをステージ衣装として借りていたことも。

祖母と言うには若くて派手な人であったために、後のファッションなどの基盤となったとも言われ、更に高校卒業後にはハリウッドビューティ専門学校へと進み、卒業して実際に美容院で働いてもいた。

中学生のhideに高級品であったギブソンを買い与えたのも祖母。
「サーベルタイガー」を解散した時には、全ての音楽活動からは足を洗って美容師として生きていこうと決心したが、結局はYOSHIKIの誘いでXに加入することになる。

インディーズバンドの発掘に力を入れており、エクスタシーレコードではバンドリサーチ担当としてLUNA SEAやZI:KILL、DEEP等を発掘し、また、自身でもレモネードレーベルを立ち上げZEPPET STORE、VINYL、trees of lifeなどのバンドを発掘した。

テレビやゲームが好きで、好んで視聴したり遊んだりしていた。

これらがあるとそればかりをしてしまうために、1年の内の多くを過ごしていたロサンゼルスでは「(日本のテレビ番組が放送されないため)音楽ぐらいしかやることが無く、集中できるために音楽を作るには適した環境」と語っていた。

テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。

また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていて、デビュー・シングルの『EYES LOVE YOU』のミュージック・ビデオは、そこから得たアイディアを取り入れている。

晩年期の音楽的嗜好としては、ナイン・インチ・ネイルズ、ミニストリー、マリリン・マンソン、ホワイト・ゾンビ、ジェーンズ・アディクション、ストーン・テンプル・パイロッツ、ダムド、オブリヴィオン・ダスト、Cocco、少年ナイフ、コーネリアス、COALTAR OF THE DEEPERS、Scudelia Electro、ストラングラーズ、トイドールズ、ソニック・ユース、DEVO、ステレオラブ、ラッシュ (バンド)、ウルトラヴォックス、TENSAW、スーパーグラス、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン、バウハウス (バンド)、ラブ・アンド・ロケッツ、アリス・イン・チェインズ、オレンジ9mmなどが挙げられる。

また、今井寿と藤井麻輝の2人と雑誌で対談した際に意気投合し、当時今井と藤井が組んでいたSCHAFTとコラボレーションをする方向で話が盛り上がった(実現こそしなかったが、zilchのリミックスアルバムにSCHAFTが参加することで希望は叶えられた)。

逸話
難病であるライソゾーム病を患ったファンである少女の「hideに会いたい」という願いを、支援団体のメイク・ア・ウィッシュを通じて受けたhideは1995年12月31日、Xの東京ドームライブで少女と会い、ライブの打ち上げにも招待して少女を友達だと紹介し、少女から不自由な手で2か月かけて編んだマフラーをhideにプレゼントされた(このマフラーはhideの死後、形見として少女の手に戻った)。
その後も手紙を送ったり、お見舞いに訪れたりという交流を持ち、少女を励ますことになった。
少女への手紙には「昔のこととか初めてのドームのこととか忘れていた色々な絵が見えてきて、かなり感動したんだ。おかげで、思い出さなきゃいけなかったいくつかのことが頭にやきついた」と感謝の言葉を残している。

1996年3月28日に少女は治療のために骨髄移植手術を受けたが、手術後の1996年4月1日に拒絶反応のため心臓に水が溜まり危篤状態となり、彼女の母親から「hideさんの声だけでも良いから聞かせたい」と電話を受けた時にはその日の予定を全てキャンセルし、病院へ駆けつけて数時間の間励まし続けた。
結果、その晩に危篤状態を抜け出し徐々に病状は良くなって数ヵ月後には退院することもできた。
その後にhideは「できることをするだけ」とあくまで個人的に骨髄バンクに登録をしたが、その際に所属事務所が独断で急遽記者会見をセッティングしてしまい、実弟でありhideのパーソナルマネージャーを務めていた松本裕士は、そのことを一切知らなかったと後に出版した追憶本「兄弟」の中で明かしている。
記者会見自体は行われたが、会見終了後にhideは「これじゃあ売名行為じゃねえか!!もしそんな風にマスコミに書かれてその娘が傷ついたらどうすんだ!!」と言って彼を殴り飛ばした。

慈善活動をひけらかすような行動を嫌ってのことであったが、結果的にはこの報道が骨髄バンクの認知度向上に大きく貢献することとなり、以後もボランティア活動を続けていた。

Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案。

これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以になる。
また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史からヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。

ファン想いであることが有名で、大物になるほど回避しがちなTV出演について「地方でライヴに来られないファンの為にも出る」と積極的であったり、「チケット代も安くないのに、更に高いお金を遣わせるのはいけない」と、ソロ活動についての関連グッズは全て5,000円以下であったという。

hideが初めて手にしたギターは新古品のギブソンのレスポール(ナチュラルカラーのレスポールデラックスモデル)であった。
祖母に無理だと思って頼んでおいたら、在日米軍横須賀基地内に出入りが出来たのでフリーマーケットで買ってきてくれたという。
当時は現在以上に高級品でロック好きには憧れの的であったために、隣の学校や、「友達の友達」という人までが自宅にギターを見に来るという状況になった。
だがそのギターは、PATA曰く「金がなかった頃に売っちゃたのかもしれない」とのこと。
そのため、記念すべきhideの最初のギターの行方は誰にもわからない。

hideの勤めていた美容院(ジャガーが経営)の常連にヤクザの娘がいて、その常連が行方不明になったとき、その常連の日記の最後に「松本秀人 サーベルタイガー」と書いてあったため、その関連性を疑われ、車に乗せられる。
富士の樹海まで連れて行かれ、自白するよう強要されたが、hideは「分からない。」と主張し続け、なんとか解放してもらう。

サーベルタイガー時代、当時デッド・ワイヤーのドラム・TETSUを迎えようと電話したところ、TETSUは留守で母親が出てきて、伝言を頼んだ。
しかし、本名を名乗っていたため、TETSUには「松本さんという方から、一緒にバンドをやりませんか?」としか伝わらず、無視することに。
しかし、サーベルタイガーに加入するといううわさがデッド・ワイヤーに広まってしまい、TETSUとTAIJIが大喧嘩。
結果、引っ込みのつかなくなったTETSUがサーベルタイガーに加入したが、これが元で一時hideとTAIJIの仲は気まずいものになった。

また、kyoをサーベルタイガーのメンバーに加えようとしたとき、待ち合わせ場所にkyoがライブ並の格好で現れ、hide曰く「モーセの十戒のごとく」人が避ける様を見て「他人の振りして逃げようかと思った」と言っている。ただ、kyoも「お前も人のこと言えなかったろうが」と返している。

サーベルタイガー解散の理由は、REMが私用でライブをすっぽかし、裏でローディーがギターを弾いてごまかすという事件があり、これに疑問を持ったTETSUが脱退を表明、それを聞いたhide・kyo・TOKIも「今のメンバー以外にはありえない」として解散を決意した。

解散後も、hide・kyo・TETSUはお互いに自分のバンドを持っているにもかかわらず、「元サーベルタイガーの○○です」と、言っていた。

hideがサーベルタイガーを解散させ、ミュージシャンを辞める決意をしたとき、親交のあったミュージシャンにそのことを電話で話した。
しかし、サーベルタイガー時代からhideの活躍ぶりは有名で、中にはバンドへの誘いもあったが全部断ってきた。
最後にYOSHIKIに電話を掛けた際、「Xに入らない?」と誘われ、hideは「ちょっと考えさせて」と答えた。
翌日、都内にある居酒屋でそのことを承諾すると、それまでそばでおとなしくしていたTOSHIとTAIJIが歓喜をあげ、酒を飲みまくり挙句の果てには組体操まで行うことになったという。

hideの死
1998年5月1日、hideはSpread Beaverのメンバーと共にフジテレビ音楽番組「ロケットパンチ!」の収録を行う。その打ち上げ後、日付をまたいで更に飲み、泥酔したhideは実弟でマネージャーの松本裕士が運転する車で自宅マンションまで送られた。

5月2日朝7時30分頃、hideは自宅マンション寝室のドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態で発見された。
その後、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。

当日午後3時頃から、一斉に「元X JAPANのギタリストhideが死亡、警視庁は自殺と断定」と速報で報道された。

警視庁が自殺と断定した根拠は、ドアノブにタオルを巻きつけて首を吊った状態で発見されたという状況証拠である。
そのためニュースやワイドショーでは自殺したものと扱われた。

しかし、当初から事故死だったのではないかという見方が出ていた。
hideの自室には遺書がなかったこと、死去前に自殺するような印象を残していなかったこと、直前にも自殺を感じさせる兆候はなかったと証言されていること、生前のインタビュー、死去の数日前にhideが都内に建てるスタジオの土地の仮契約をしていたこと、などといった理由がこれに関連する。

ピンクスパイダー」の一連の歌詞について「自殺」と関連付けられる説もあるが、これについてはhide自身が雑誌等で「『ピンクスパイダー』の歌詞は『世の中そんなに甘くはない』という挫折と失敗を表した歌。
『若いうちは後先考えず突き進め』というメッセージを込めた「ROCKET DIVE」、『人間何度でもやり直せる』という再生・再起の意味を込めた「ever free」と合わせて3部作の1つとして聴いて欲しい」と語るなど、死を意図したものとは位置付けられていない。

後に発表された松本裕士の見解は、「ギタリストである彼は、職業柄肩こりが激しく眠れないこともあったほどで、タオルなどで肩を吊ってマッサージしていたという。これは、スポーツ選手などがよくやる牽引(タオルを首にかけて引っ張る方法)である。死去直前の5月2日未明まで酒を飲んでおり泥酔状態でそれをしてしまった為、そのまま眠ってしまい、結果事故死した」というものである。
事実、彼の亡くなる数時間前に撮影された「ロケットパンチ!」でのインタビュー中、(ギターのストラップのあたる左肩が痛いのか)特に左肩を揉むしぐさを頻繁にしている。

HURRY GO ROUND」の歌詞や、ラジオ番組「オールナイトニッポンR」での発言が意味深長で自殺に関連するのではないかという見方や、はたまた事故ではなく自殺だと断言している人間の存在までもあり、様々な見解がある。
警察は雑誌取材などに「『牽引』にしては首の輪が小さく、むしろ死を意図するものであった。また、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われる」と答えている。

なお、YOSHIKIは「彼は自殺するような人間ではない」と発言している。

死去後に時間が経過してからは、テレビなどでhideを取り上げる際には「自殺」、「事故死」という言葉を使わず、「急死」または「急逝」とされている。
その理由は「自殺、事故どちらも断定するには曖昧であるから」とされる。

抜粋:http://ul.lc/58eb(wikipedia)より

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