【今日の歴史】745年8月19日の事【絶世の美女】

【今日の歴史】745年8月19日の事【絶世の美女】

唐の楊太真が玄宗皇帝の貴妃[楊貴妃]

当時の人と比べたら楊貴妃はかなりの大柄だったと思われます。
そして、体重も60㎏台と、とてもスレンダーとは言い難いものでした。

楊貴妃(ようきひ)
719年(開元7年) – 756年7月15日
(至徳元載(元年)6月16日))
中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。
貴妃は皇妃としての順位を表す称号。
玄宗皇帝の寵姫。
玄宗皇帝が寵愛しすぎたために
安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、
傾国の美女と呼ばれる。
古代中国四大美人
(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。

【楊貴妃について】

壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。
蜀出身。本籍は蒲州・永楽にあったという。蜀州司戸の楊玄淡の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。
6月1日に生まれたと伝えられる。
四川省には、「落妃池」という楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池がある。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。

【女官へ】
735年(開元23年)
玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。
李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、737年(開元25年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官・高力士の薦めで李璵が皇太子に冊立された。

740年(開元28年)玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠となった(このときの道号を太真という)。
これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。
その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。

楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。
『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。

当時の人と比べたら楊貴妃はかなりの大柄だったと思われます。 そして、体重も60㎏台と、とてもスレンダーとは言い難いものでした。

【皇帝の妃、楊貴妃へ】
745年(天宝4載7月18日) 唐の楊太真が玄宗皇帝の貴妃(楊貴妃)になる。
『楊太真外伝』によると、初めての玄宗との謁見の際、霓裳羽衣の曲が演奏され、玄宗は「得宝子」という新曲を作曲したと伝えられる。
『梅妃伝』によると、梅妃という女性と寵愛を争い、これに勝利したという説話が残されている。

父の楊玄淡は、兵部尚書、母の李氏は、涼国夫人に追贈され、また、叔父の楊玄珪は、光祿卿、兄の楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は駙馬都尉に封じられる。
さらに、楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなった。
楊銛、楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は、詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は、門を並ぶほどであったと伝えられる。

746年(天宝5載)嫉妬(玄宗と梅妃との関係によるとする説もある)により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。しかし、玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであった。
この時、高力士はとりなして、楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は、太華公主の家を通じて、夜間に後宮に戻ってきた。
玄宗は楊貴妃が戻り、その罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられる。それから、さらに玄宗の寵愛を独占するようになった。
その後、范楊・平盧節度使安禄山の請願により、安禄山を養子にして玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っている。

天宝7載(748年)三人の姉も国夫人を授けられ、毎月10万銭を化粧代として与えられた。
楊銛は上柱国に、またいとこの楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。

玄宗が遊幸する時は、楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には、高力士が手綱をとり、鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。
権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。

750年(天宝9載)また玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返される。(『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられる)。
しかし、吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。
玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。『楊太真外伝』によると、その以降、さらに愛情は深まったとされる。

751年(天宝10載)安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山と湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。
しかしその後も、安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れたという。

752年(天宝11載)李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握った。
この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。また、楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。

754年(天宝13載)楊貴妃の父の楊玄淡に、太尉、斉国公、母の李氏に梁国夫人が追贈され、楊玄珪は、工部尚書に任命される。
楊一族は、唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきた。

755年(天宝14載)楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。
この時、玄宗は親征を決意し、太子・李亨に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は、土を口に含んで、自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守った。

756年(至徳元載)哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。
玄宗は首都・長安を抜け出し、蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになった。
しかし、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。
さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。
玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。

『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(首吊り)させられた。
この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。陳玄礼らによって、その死は確認され、死体は郊外に埋められた。
さらに、安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。
その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられる。

玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎・李揆からの反対意見により中止となった。しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。
この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。また、玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

【豆知識】
細身の趙飛燕と比べて、豊満な体型をしていたということで「楊肥趙痩」と、豊満体型とほっそり体型の美人を比べ、表現する言葉として残っている。

日本の山口県には、楊貴妃が阿倍仲麻呂と共に安史の乱を逃れて日本に亡命してきたとの伝説が存在し、長門市油谷町の二尊院というお寺には楊貴妃の墓と伝わる五輪塔(山口県指定有形文化財)がある。

日本には、楊貴妃は熱田神宮の明神の化身であるという伝説もある(『長恨歌』に詠われた、天に還った楊貴妃がいた蓬莱が日本であるという伝承があった)。

京都市泉涌寺にある観音菩薩坐像は楊貴妃をモデルに作られたという伝承があり、楊貴妃観音とも呼ばれている。

 茘枝(ライチ)を好んだという前出のエピソードから、デ・カイパー社(オランダ)のライチ・リキュールには「貴妃」という名前が付けられている。また、カクテル「楊貴妃」はライチリキュールがベースとなっている。

楊貴妃が好んで飲んだと伝わる薬酒の楊貴美酒という処方がある。

メダカに「楊貴妃メダカ」という赤い色の種類がいる。

抜粋:http://ul.lc/4vfu(wikipedia)より

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