【今日の歴史】1992年11月23日の事【ファンタジー号事件】

【今日の歴史】1992年11月23日の事【ファンタジー号事件】
浮かび上がる「ファンタジー号」直径6mのビニール風船を6個、直径3mの風船を20個で構成されていた。
浮かび上がる「ファンタジー号」直径6mのビニール風船を6個、直径3mの風船を20個で構成されていた。

ファンタジー号事件

注)個人のプライバシーの問題も有り、事件についてのみの記載とする。

概要
1992年11月23日、当時52歳でヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」の試験飛行を琵琶湖畔で行う。

試験飛行の場には、電話で呼び出された同志社大学教授の三輪茂雄と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビのワイドショー『おはよう!ナイスデイ』取材班、そして鈴木の支持者らが集まった。

この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだった。

しかし、120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃、「行ってきます」と言ってファンタジー号を係留していたロープを外した。

「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎の瓶を地上に落とし周囲の制止を振り切って、アメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発した。

翌日は携帯電話で「朝焼けがきれいだよ」と連絡が取れたものの、2日後にSOS信号が発信され海上保安庁の捜索機が宮城県金華山沖の東約800m海上で飛行中のファンタジー号を確認した。

しかし捜索機に向かって手を振ったり座り込んだりして、SOS信号を止めた。

ファンタジー号の高度は2,500メートルで、高いときには4,000メートルに達した。
約3時間の監視ののち雲間に消えたため、捜索機は追跡を打ち切った。

以後、SOS信号は確認されておらず、家族から捜索願が出されたことを受け、12月2日に海上保安庁はファンタジー号が到着する可能性のあるアメリカ合衆国とカナダとロシアに救難要請を出した。

計算では、ファンタジー号は、高度1万メートルに達すれば、ジェット気流に乗って、40時間でアメリカに到着するはずだったが、以後の消息は不明である。

当時の気象大学校の教頭である池田学は『朝日新聞』の取材に対し、「生存は難しいだろう」と答えている。ファンタジー号のビニール風船の素材が塩化ビニールならば、1日に約10%の割合でガスが抜け、 海に着水している可能性が指摘されている。

冒険の動機は、同志社大学教授の三輪茂雄の鳴き砂保護に賛同して、鳴き砂保護を訴えるためだったと言われる。
鳴き砂の海岸がある島根県邇摩郡仁摩町(現大田市)の町長に2度の接触を持ち、経済援助を要請していた。
その際「2億円の生命保険をかけている」と説明したという。
生命保険については、債権者に5,000万円の保険に加入したと語っていたという情報もある。
この債権者には、成功すればCM料で借金が返済できるとも説明していた。

しかし仁摩町からの太平洋横断飛行出発には、4月の東京での飛行の失敗のために日本の運輸省の許可もアメリカの連邦航空局の許可も下りず、仁摩町は文書で正式に要請を断った。

なお、仁摩町では鈴木が高校時代に見て以来好きだったというフランス映画『赤い風船』をビデオで見せていたという。

三輪教授には、会うたびに異なった計画を説明をし、「断食の訓練をしたから食事は要らない」「アメリカから帰ったら有名になれる。俺は冒険家だ」とも語っていた。
三輪は無線免許を取ることと、鳴き砂のある仁摩町から飛ばなければ意味がないと諭していたが、それにも関わらず、琵琶湖湖畔から旅立たれ、裏切られた思いだとマスコミに感想を述べている。

ファンタジー号
直径6mのビニール風船を6個、直径3mの風船を20個装備。
ゴンドラの外形寸法は約2m四方・深さ約1mで、海上に着水した時の事を考慮し、浮力の高い檜を使用していた。

ゴンドラ製作を依頼したのは桶職人で、桶造りでは東京江戸川区の名人と言われる人物ではあるが、飛行船のゴンドラは専門でない。
風船のガスが徐々に抜けて浮力が落ちるため、飛行時に徐々に捨て機体の浮上を安定させる重り(バラスト)を用意していた。

重りの中身は、厳寒でも凍らない焼酎を使用していた。
ただし焼酎は浮力不足のため、琵琶湖畔からの出発の際に200本全てが下ろされた。

積載物は、酸素ボンベとマスク、1週間分の食料、緯度経度測定器、高度計、速度計、海難救助信号機、パラシュート、レーダー反射板、携帯電話、地図、成層圏の零下60度以下の気温に耐える為の防寒服、ヘルメットに紫外線防止サングラス等であった。

出発時の防寒具は、スキーウェアと毛布で、無線免許は持っていなかったため、無線機は積まれていなかった。搭載していた高度計についても、使い方を理解していなかったという。

食糧については、絶食の訓練をしていたと称しており、スナック菓子のみだった。

テレビカメラと無線緊急発信装置も搭載されていた。

ファンタジー号のビニール風船については、もともと人を乗せるものではないし、零下何十度にも達する高空に耐える保証もないことを制作したアド・ニッポー社は取材に答えている。

日本気球連盟の今村純夫も、上空で気圧が下がると、球形の風船では膨らんで弾ける可能性を指摘。
さらに破れてヘリウムガスが抜ける風船があったものの、鈴木は出発の前に粘着テープで応急修理して使ったという。

4月の不時着事故でこれまでの会社がヘリウムガスを売ってくれなくなったため、別の会社から調達。
計280万円分のヘリウムボンベはトラック3台で運搬された。

ファンタジー号での冒険にあたっては、金を募ったが、寄付された金額は不明。
ゴンドラの制作のために多額の借金を負い、支援者の1人が1,300万円を肩代わりした。

マスメディアの反応
ファンタジー号の出発直後から、民放テレビ局のワイドショー番組では、貴乃花と宮沢りえの婚約報道とともにトップニュース扱いで毎日のように報道。

「風船おじさん」のニックネームが定着するきっかけを作った。

新聞のテレビ欄では、11月26日にフジテレビ『タイム3』が「無謀な冒険 風船で米国へ」、TBSの『モーニングEye』が「無謀・風船男太平洋横断決行」、『スーパーワイド』が「風船おじさんを大追跡」と取り上げているのが確認できる。

12月1日には『モーニングEye』が「風船男飛んで1週間消息徹底追跡」、『タイム3』が「追跡風船男米空軍も調査」。

密着取材していたフジテレビの『おはよう!ナイスデイ』は12月2日に「風船男の安否」、12月3日に「風船おじさん 遂に身内捜索願」と取り上げた。

しかし、1992年12月6日以後は、オーストラリアで新婚旅行中の日本人妻が失踪する事件(のちに狂言であることが発覚)が発生し、マスメディアの関心が移ったことと、ファンタジー号自体の話題が尽きたこともあり、『スーパーワイド』が12月6日「風船男SOS」、12月8日に「風船男SOS検証」と取り上げているのがテレビ欄で確認できる最後であり、ファンタジー号に関する報道は沈静化した。

週刊誌では、同年12月17日号の『週刊文春』が、密着して出発時の映像も撮影していたフジテレビの姿勢を「本人を煽ったのではないか」と取り上げ、同時に計画を無謀だと指摘。

12月24日・31日合併号の『週刊新潮』は過去のプライバシーを明かす記事を掲載した。
見出しには、『週刊文春』が「風船男」、『週刊新潮』は「風船おじさん」を使った。

フジテレビは『週刊文春』の取材に対しタイアップしておらず、また本人は無線免許を取得して4月以降に出発すると語っていたため、11月23日に飛んでしまうとは思わなかったと回答している。

その後
1999年の取材によれば、2年に1度の捜索願を家族が更新しており、戸籍上は生きていることになっているという。
ただその時点で失踪宣告の手続きをしようかと思うようになったとも語っている。

「風船おじさん」については、その後も話題になることがある。

例えば、タレント・映画監督のビートたけしは、野球選手のイチローが国民栄誉賞を辞退した際に、冒険家だった風船おじさんに国民栄誉賞をあげればいいと語ったことがある。

1995年にはレピッシュがアルバム「ポルノポルノ」に「風船おじさん」という曲を収録。
ドン・キホーテ的生き方を敬意とともに肯定する内容となっている。

1997年4月には、劇作家の山崎哲の作・演出で鈴木をモデルにした舞台『風船おじさん』が新宿のシアタートップスで上演された。蟹江敬三の一人芝居である。

1998年11月22日の20時からは文化放送が妻や周辺に取材して、『ファンタジー号に乗って~あれから6年 消えない響き』というドキュメンタリーのラジオ番組を放送した。

遺体がアラスカで発見されたというニュースがネット上に存在しているが、事実無根のデマである。

抜粋:http://ul.lc/5710(wikipedia)より

関連書籍等
風船おじさんの調律
風船おじさん
カールじいさんの空飛ぶ家 [DVD]

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