【今日の歴史】1964年9月7日の事

【今日の歴史】1964年9月7日の事
アンディ・フグのかかと落としは、すべてのK-1ファンを魅了した
アンディ・フグのかかと落としは、すべてのK-1ファンを魅了した

アンディ・フグ生誕日

アンディ・フグ(Andy Hug、男性、1964年9月7日 – 2000年8月24日)は、スイス・ボーレン出身の空手家、キックボクサー。
本名はアンドレーアス・フーク(Andreas Hug〔アンドレェアス:andréːas〕〔フゥク:húːk〕 ドイツ語辞書による)。

得意技は踵落とし、下段後ろ回し蹴り(フグトルネード)、左フック。入場時にはゴットハードの『Fight for Your Life』(邦題:闘え!アンディ・フグ)やクイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」をテーマ曲に使用していた。

家族は、妻・イローナと息子・セイヤ(空手の掛け声から命名)の2人。

勝ちも負けもKO決着が多い、倒すか倒されるかの選手であった。
ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、マイク・ベルナルドと共に創成期のK-1四天王として君臨し、K-1ファイターの中では決して大きくない体で、負けても負けても立ち上がる不屈の戦いぶりとリベンジマッチでの強さ、彼が得意としていた踵落とし等の華麗な技、そしてCMやテレビ番組で見せるユーモア溢れる人柄も併せ、K-1の人気を押し上げることに大きく貢献した。

さらにアンディの母国スイスでK-1の大会が開催されると必ず凱旋試合を戦い、全戦全勝を収めている。
しかも相手はいわゆる噛ませ犬などではなく、ピーター・アーツ、マイク・ベルナルド、ミルコ・クロコップ、ステファン・レコといった世界トップクラスの強豪と戦って勝利している。
また、K-1スイス大会でのアンディの試合のスイス国営テレビの平均視聴率は必ず50%を超えており、アンディが日本とスイスの両国で英雄であったことが分かる。

彼の得意技である踵落としについてはテコンドーのネリチャギとの類似性が見られるが、本人の生前のインタビューでは、空手の蹴り技の一つ「内回し蹴り」を応用した技だと語り、ネリチャギ自体は踵落としを使うようになった後で知ったとのことである。
増田章は「踵落しよりも下段回し蹴りが強烈だった。アンディの素晴らしい所は踵落しで攻撃を散らし、決め技の下段回し蹴りに繋げて相手を倒していた」と述べている。
実際、第4回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では桑島靖寛、アデミール・ダ・コスタをその流れで一本勝ちを奪っていた。

2000年に急性前骨髄球性白血病(APL)により35歳で死去し、多くの格闘技ファン・関係者に衝撃を与えた

アンディーの生涯
幼少期のアンディはサッカー少年であったが、ブルース・リーに憧れて10歳より極真空手を始める(乱暴者であまりにも素行が悪かったために祖母が空手をやらせたという話もある)。
その後、ヨーロッパ最強の男ミッシェル・ウェーデル、松井章圭、増田章のライバルとして活躍するなど若くして頭角を現した。

1985年に極真ヨーロッパ選手権で優勝。1987年の第4回世界大会では、決勝戦で松井章圭に敗れ準優勝。
1989年に極真ヨーロッパ選手権で同大会2度目の優勝。
1991年の極真ヨーロッパ選手権にて、決勝戦で黒豹の異名を持つマイケル・トンプソンに敗れ準優勝(後にラスタとんねるず’94の最終回企画「ジャイアント将棋インテグラル」で、対決はなかったものの再会している)。
同年11月の第5回世界大会の4回戦では、フランシスコ・フィリォに一本負け(止めがかかってからの上段回しによる失神。大山倍達総裁の「止めがかかったとはいえ、その不意をつかれる者は勝者ではない」という判断により一本負けとなった)。

その後、極真会館を退館。アンディはプロに新天地を求めて正道会館に移籍。
グローブ空手を経て1993年からK-1に参戦する。K-1旗揚げ戦から参戦していたが、1993年の一年間はK-1ルールでは戦わず、ワンマッチにてスピリットカラテルールで戦っていた。
同ルールで村上竜司と対戦し、踵落としで勝利した姿は、空手ファンだけでなくキックボクシングファンにフグの名前が広まるきっかけとなった。

1993年11月15日、ANDY’S GLOVEのメインイベントで村上竜司と対戦し、1ラウンドに3度のダウンを奪いTKO勝ちを収めた。大会タイトル通り、初めてグローブを着用し、K-1グランプリルール初挑戦となった。

1994年3月4日、グローブマッチ3戦目となったK-1 CHALLENGEで前年度K-1GP王者ブランコ・シカティックと対戦。フグはダウンを奪われながらも、不屈の闘志で凄まじい猛反撃を繰り返し、3-0の判定勝利を収める番狂わせを起こした。

優勝候補として臨んだ同年4月30日のK-1GPトーナメントでは1回戦でUFC出身の喧嘩ファイターパトリック・スミスに1R19秒でKO負け。同年9月18日にスミスとリベンジマッチを行い、1R56秒KO勝ちでリベンジに成功する。

1995年のK-1GPではまたも1回戦で当時無名のマイク・ベルナルドにダウンを奪いながらも逆転KO負けを喫してしまい、さらに6か月後のリベンジマッチでも返り討ちに遭ってしまう。

しかし、1996年のK-1GPでは3月10日のGP開幕戦でバート・ベイルに1RKO勝ちして1回戦を突破すると、5月6日のK-1GP決勝大会では、準々決勝でバンダー・マーブに1RKO勝ち、準決勝でアーネスト・ホーストと再延長戦までもつれる激闘の末勝利、そして決勝戦では宿敵マイク・ベルナルドにフグトルネードで2RKO勝利し、悲願のK-1GP初優勝(空手の選手としても初優勝)を果たす。
見事、1994年・1995年の借り全てを返す形となった。

1997年7月20日のワンマッチでは、極真時代のライバルにして、K-1初参戦の因縁の相手フランシスコ・フィリォを迎え撃つ形となったが、王者アンディはフィリォに右フック一発で1R失神KO負けを喫した。

その後、1997年のK-1GPトーナメントではピーター・アーツらに勝利して決勝まで勝ち進むも、アーネスト・ホーストに判定負けで準優勝。

1998年のK-1GP決勝トーナメントも同様に決勝まで勝ち進んだが、当時圧倒的な強さでトーナメントを勝ち上がってきたピーター・アーツにKO負け。
敗れはしたものの、3年連続でファイナリストとなった記録は、2007年にセーム・シュルトがグランプリ3連覇を果たすまでは破られていなかった(MAXではブアカーオ・ポー.プラムックがタイ記録を持っている)。

アンディーの最期
2000年10月9日のK-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKAでのトーナメントに出場する予定だったが、大会の2か月前の8月24日午後2時に正道会館で記者会見が行われ、アンディが急性前骨髄球性白血病(APL)によって危篤状態であることが発表された。

病気のことは周囲に心配を掛けることを嫌い、家族にすら内緒にしていたという。

死の床でアンディは、日本での活躍の場、K-1での活躍の場を提供するきっかけを作った正道会館の石井和義館長(当時)に、「I Love You. 館長。」と語りかけ、石井は「I Know. わかっているよ。」と答えたという。
2000年8月24日午後6時21分死去。葬儀は本人の希望により日本式の仏式葬儀で行うことになり、2000年8月27日の告別式はテレビで生中継された。

最初の報道ではアンディが急病(病名は明らかにされていた)で緊急入院したことだけが発表され、自身による復帰を約束するメッセージが伝えられた。
さして間もなく、彼が実は危篤状態にあるとの情報が世間に伝えられ、翌日にはその死が国民の知る所となった。結果的に、彼の闘病生活の存在自体が死の直前まで伏せられていた形となった。

それだけ、彼は、彼の言いたくない事実、聞きたくない事実、言い聞かせたくない事実といった秘密を、『水も漏らさず』の形で、堅く守っていたことが伺える。

抜粋:http://ul.lc/4x6y(wikipedia)より

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