【今日の歴史】1950年7月2日の事【金閣寺炎上】

NO IMAGE
焼失する前の金閣(1893年)出典:wikimedia.org
焼失する前の金閣
(1893年)
Josiah Conder, Landscape Gardening in Japan, 1893, reprint 2002
ISBN 4-7700-2852-0
出典:wikimedia.org

金閣寺放火事件

1950年7月2日未明に、京都府京都市上京区
金閣寺町にある鹿苑寺(ろくおんじ)
(通称・金閣寺)

において発生した放火事件である。
アプレゲール犯罪の一つとされた。
世界遺産(世界文化遺産)鹿苑寺(金閣寺)

概要
1950年7月2日の未明鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。

幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍、足利義満の木像(当時国宝)観音菩薩像阿弥陀如来像仏教経巻などの文化財6点も焼失した。

鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。

その結果同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(京都府舞鶴市出身・当時21歳)が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。

動機
逮捕当初の取調べによる供述では、動機として

「世間を騒がせたかった」
「社会への復讐のため」

などとしていた。

しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。

そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された。

一例として三島由紀夫

「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」

と分析したほか、水上勉

「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」

と分析した。

また、服役中統合失調症の明らかな進行が見られたことから、事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある。

その後
林の精神鑑定を行ったのは後に国立京都病院に精神科を設立し医長となる加藤清である。

1950年12月28日、京都地裁は林に対し懲役7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院した後の1956年3月7日に病死した。

再建
現在の金閣は国や京都府の支援および地元経済界などからの浄財により、事件から5年後の1955年に再建されたものである。

金閣は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことからきわめて忠実な再現が可能であった。

事件当時の寺関係者の回顧談等によると、焼失直前の旧金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情で、現在のように金色に光る豪華なものではなかった。

また、修復の際創建当時の古材を詳細に調査したところ金箔の痕跡が検出され、本来は外壁の全体が金で覆われていたとの有力な推論が得られたことから、再建にあたっては焼失直前の姿ではなく創建時の姿を再現するとの方針が採られた。
舎利殿 - 金閣寺 / Kinkaku-ji Temple
再建後の金閣舎利殿

豆知識
金閣寺は寺院全体のことを言う。

この事件を題材に、長編小説では三島由紀夫『金閣寺』【楽天ブックス】や、水上勉『五番町夕霧楼』【楽天ブックス】が書かれた。

水上勉は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べている。

舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いたもので、事件の経緯を知るための一次史料となっている。

アクセスなど:京都府ホームページのトップページ

抜粋:http://tiny.cc/a1d1zx(Wikipedia)より

PR

歴史的な事件カテゴリの最新記事

Verified by MonsterInsights