伊能忠敬 蝦夷地に出発
1800年1800年6月11日
(寛政12年閏4月19日)
伊能忠敬が日本地図作成に備えた
第一次測量のため蝦夷地に向けて出発。
伊能 忠敬
(1745年2月11日~1818年5月17日)
江戸時代の商人・測量家である
通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)字は子斉、号は東河。
概要
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。
測量の許可
忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。
寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。
至時って誰?
高橋 至時(たかはし よしとき)
(1764年12月22日~1804年2月15日)
江戸時代後期の天文学者。
字は子春、号は東岡・梅軒。通称作左衛門。
子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいる。
また、至時は19歳年上の忠敬に暦学や天文学を教えた。
至時は毎日天体観測に熱を入れる忠敬を「推歩先生」と呼んだ。
日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。
また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した。
至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。
蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである。
そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。
忠敬は高齢な点が懸念されたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。
至時の提案は、幕府にはすんなりとは受け入れられなかった。
寛政11年(1799年)から寛政12年(1800年)にかけて、佐原の村民たちから、今までの功績をたたえて伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴が出されたが、これも、忠敬が立派な人間であることを幕府に印象づけさせて、測量事業を早く認めさせるという狙いがあったとみられている。
(この箱訴は第一次測量後の享和元年(1801年)に認められ、忠敬は今までの地頭からの許可に加え、幕府からも名字帯刀を許されることとなった。)
幕府は寛政12年の2月ごろに、測量をするということ自体は認めたが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めた。
しかし船で移動したのでは、道中に子午線の長さを測るための測量ができない。
忠敬と至時は陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴えた。
その結果、希望通り陸路を通って行くこととなったが、測量器具などの荷物の数は減らされた。
同年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された。
ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされた。
このことから、当時の幕府は忠敬をあまり信用しておらず、結果も期待していなかったことがうかがえる。
忠敬は「元百姓・浪人」という身分で、1日あたり銀7匁5分(約8,250円)が手当として出された。
匁(もんめ)目方の単位。
一貫の千分の1。一匁は3.75グラム。
1800年では米1石=150kg=米俵2.5俵=銀60~65匁
銀1匁あたり1,100円
と、解りづらい換算をしてみるw
やっと出発
忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発した。
忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった。
富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。
千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めた。
千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わった。
寒くなる前に蝦夷測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動した。
(40kmは徒歩で10時間~11時間)
出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩(みんまや)に到達した。(現外ヶ浜町)
三厩からは船で箱館(現函館市)へと向かう予定だったが、やませなどの影響で船が出せず、ここに8日間滞在した。
やませ(山背)
春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)のこと。
特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。
やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。
9日目に船は出たが、やはり風の影響で箱館には着けず、松前半島南端の吉岡に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かった。
箱館には手続きの関係で8泊し、その間に箱館山にのぼり方位の測定をおこなった。
また下男の1人が病気を理由に暇を申し出たので、金を与えて三厩行きの船に乗せた。
蝦夷の測量
5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷測量が始まった。
しかし、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤は箱館に置いてくることにした。
また、初日は間縄を使って距離を丁寧に測っていたが、あまりに時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えた。
一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測をおこなった。
海岸沿いを通れないときは山越えをおこなった。
蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多い。
また、本州のような宿が無かったため、宿泊は会所や役人の仮家を利用した。
難所続きでわらじもことごとく破れて困っているところに目に入った会所からの迎え提灯は、地獄に仏のようだったという。
わかる~w
7月2日、忠敬らはシャマニ(様似町)からホロイズミ(えりも町)に向かったが、襟裳岬の先端まで行くことはできず、近くを横断して東へ向かった。
その後クスリ(釧路市)を経て、ゼンホウジ(仙鳳趾)から船でアツケシ(厚岸町)に渡り、アンネベツ(姉別)まで歩き、再び船を利用して、8月7日にニシベツ(西別、別海町)に到達した。
根室通り越したぞ?
一行はここから船でネモロ(根室市)まで行き、測量を続ける予定だった。
しかしこの時期は鮭漁の最盛期で、船も人も出すことができないと現地の人に言われたので、そのまま引き返すことにした。
8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路についた。
Σ(‘◇’*)エェッ!?
上の方は?
と、思ったら他にも居たね(堀田仁助、最上徳内、近藤重蔵)
すっかり忘れてたw
9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。
第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷滞在は117日だった。
なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷滞在中に間宮林蔵に会って弟子にしたとのことであるが、この時の測量日記には林蔵のことは書かれていない。
間宮 林蔵(まみや りんぞう)?
安永9年(1780年) – 天保15年2月26日(1844年4月13日)
江戸時代後期の隠密、探検家。
樺太(サハリン)が島である事を確認した事で知られる。
近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
名は倫宗(ともむね)
農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人。
ん~。
やっぱり一人で作ったんじゃなかったかぁ~w
当たり前といえばあたりまえだが…w
ちなみにこの前から日本地図はありました。
しかし、目測でかなり不正確なモノでした。
そして、測量をして完成させたモノが『大日本沿海輿地全図』いわゆる、伊能図や伊能大図と言われるもので、日本史上初の測量地図として後世まで残る事となります。
年齢関係なく実行すればできるものなんですね。
いい教訓になりました。
抜粋:http://tiny.cc/qvy8yx(wikipedia)