オランダ東インド会社設立
連合東インド会社
(Vereenigde Oostindische Compagnie)と言う。
略称VOC。
1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社ともいわれる(イギリス説とオランダ説があるらしい)。
会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。
資本金約650万ギルダー、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。
18世紀末に政府により解散させられた。
ここで言う「インド」とはヨーロッパ、地中海沿岸地方以外の地域をさす。
イギリス説とオランダ説
既に1600年にはイギリス東インド会社は設立されていた。
しかし、前述のとおり、オランダ東インド会社の資本金約650万ギルダーはイギリス東インド会社の資本金の10倍以上もあり規模も大きく、会社としての出資形態も株式会社としての顔をもっていた。
イギリスは当座資金だった。
この辺りの解釈の違いで、世界初の株式会社がイギリス東インド会社だったり、オランダ東インド会社するらしいがどちらが先かと言えばイギリス?
一般的に東インド会社と言うと、アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社をいう。
イギリス東インド会社、オランダ東インド会社、スウェーデン東インド会社、デンマーク東インド会社、フランス東インド会社がある。
株式会社の基本
法人格、出資者(株主)の有限責任、持分の自由譲渡性、取締役会への経営権の委任(所有と経営の分離)、出資者(株主)による所有の5点らしい。
背景
スペインに対しての反乱を継続中であったオランダは、スペインの貿易制限、船舶拿捕などの経済的圧迫に苦しんでいた。
当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていた。
こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要があった。
1595年から1597年までの航海を通じてジャワ島のバンテンとの往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させた。
しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残された。
さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めさせた。
こうした中、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトは、複数の商社をまとめてオランダ連合東インド会社を発足させ、諸外国に対抗しようとした。
6つの支社から構成されており、それぞれはアムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフに置かれた。
設立後
設立当初は東インド(インドネシア)における香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦った。
1605年には、スラウェシ島に上陸。
1619年には、第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619年-23年、再任1627年-29年)がジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地とした。
1623年にモルッカ諸島でアンボイナ事件(過去記事)が勃発し、オランダ東インド会社が日本人の傭兵を含むイギリス商館のイギリス人を虐殺した。
イギリスは東南アジアから撤退し、インドのムガル帝国攻略に向かう転換点となった。
1628年から1629年にかけて、ジャワ島でマタラム王国がバンテン王国への進出を目指し、2度に渡ってバタヴィアに侵攻したが撃退した。
1646年に、マタラム王国と平和協定を締結し、ジャワ島でマタラム王国と独占貿易をすることになった。
また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。
南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配した。
日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入りポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められた。
アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落した。
イギリス東インド会社やフランス東インド会社もオランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退して、インド経営に専念することになる。
1643年、オランダ東インド会社に所属するマルチン・ゲルリッツエン・フリースは、東インド総督の命を受けて日本の東方沖にあるとされた金銀島探検のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官として太平洋を北上し、ヨーロッパ人で初めて択捉島と得撫島を発見した。
そして、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言をした。
1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸でゴワ王国との戦争に突入し、1669年にスペルマン提督が、スルタンのハサヌディンに、オランダ東インド会社のスラウェシ島支配に関するボンガヤ条約を署名させた。
1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、バンダ諸島(東インド諸島モルッカ諸島)にあるラン島(香辛料貿易)とニューアムステルダム(毛皮貿易)の自治権と交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグ、クローブ等)の独占を図った。
イギリスは既に種子を持ち出しており、1815年頃からモーリシャスやグレナダなどでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになった。
18世紀には3度に渡るジャワ継承戦争(1703年・1719年・1749年)や華僑虐殺事件によって、マタラム王国が四分割され、ジャワ島での支配体制も確固たるものとなった。
オランダ本国は、オランダ東インド会社が17世紀の成功によって黄金時代を迎えていた一方で、衰微の兆しが訪れていた。
17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争や絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗し、1689年にヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡した。
以後イギリスが大英帝国として、海上覇権を確立する事になる。
1795年にはフランス革命軍により本国を占領された。
この混乱のなかで1799年12月31日、オランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。
ナポレオン戦争後、オランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになる。
抜粋:http://ul.lc/5fjp(wikipedia)より
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