【今日の歴史】1872年3月25日の事【島崎 春樹】

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島崎藤村 otakarajoho.blog10.fc2.comより
島崎藤村

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島崎藤村生誕日

日本の詩人、小説家。
本名は島崎 春樹(しまざき はるき)
信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生まれ。

『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。

作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』姪との近親姦を告白した『新生』父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。

略歴
1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村(長野県を経て現在の岐阜県中津川市)に父・正樹、母・縫の四男として生まれた。

1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』『論語』を学ぶ。

1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙に、『詩経』などを学んだ。

さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)入学。
在学中は馬場孤蝶戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。

学生時代西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉西行などの古典書物も読み漁った。

明治学院普通部本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。
この間、1886年(明治19年)父正樹が郷里にて牢死

正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。

浪漫派詩人
卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。

翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。

一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。

その後関西に遊び、吉村家に戻る。

1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺

さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没

この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『春』で描かれる

1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。
1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場した。

『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。

これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく

藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。

『落梅集』におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男が伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。

また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲「千曲川旅情の歌」も同じ詩集からのものである。
ここらへんの歌関係は知らなかったorz

小説へ
1899年(明治32年)、小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。

函館出身の秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。

この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。

小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。

1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版

すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。

ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。

1907年(明治40年)に発表した「並木」は、孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。

1908年(明治41年)『春』を発表1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月妻・冬が四女を出産後死去した。

このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。

翌年から留学という名目で3年間パリで過ごしたのち、帰国するもこま子との関係が再燃してしまう。

1917年(大正6年)に慶應義塾大学文学科講師となる。

1918年(大正7年)『新生』を発表し、この関係を清算しようとした。

このためこま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。

なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。

1927年(昭和2年)「嵐」を発表

翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで『中央公論』にて連載された。

この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられた。

また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。

1940年(昭和15年)帝国芸術院会員1942年(昭和17年)日本文学報国会名誉会員

米英との戦争が迫る中、1941年(昭和16年)1月8日に当時の陸軍大臣・東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。

1943年(昭和18年)「東方の門」の連載を始めた。

1943年(昭和18年)8月22日脳溢血のため大磯の自宅で死去した。

最期の言葉は「涼しい風だね」であった。

憂鬱
島崎藤村は自作でさまざまに、「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。

1.父親と長姉が、狂死した。

2.すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間だった。

3.後に姪の島崎こま子と不倫事件を起こしたが、こま子の父である次兄広助の計らいによって隠蔽された。
兄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた。

抜粋:http://ul.lc/5fwu(wikipedia)より

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