【今日の歴史】1998年11月27日の事【家電】

【今日の歴史】1998年11月27日の事【家電】
ゲームとしての完成度はこの頃は良かった。
ゲームとしての完成度はこの頃は良かった。

「ドリームキャスト」を発売

ドリームキャスト(Dreamcast)は、セガ・エンタープライゼス(現:セガ)が発売した家庭用ゲーム機である。一般にはDCやドリキャスの略称で呼ばれる。

概要
ソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStationに劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、1998年11月27日に日本国内で第6世代ゲーム機の先陣として発売された。

最大の特徴として、インターネット通信用のアナログモデムを標準搭載した点が挙げられる。最高通信速度は日本国内向け純正品の場合33.6Kbpsで、本体からの着脱が可能だった。
2000年7月に100BASE-T(ソフト側では10BASE-Tとしか使われなかった)LANアダプタ・「ブロードバンドアダプタ」が通販専売品ながら発売された。なお、モデムを標準搭載した家庭用ゲーム機は1996年3月にバンダイから発売されたピピンアットマークに次いで本製品が2番目である。

「ドリームキャスト」の名称は候補を募り絞っていったもので特定の命名者はいない。
dream(夢)をbroadcast(広く伝える)という願いを込めた造語である。
当時はPointCast等のPush技術が未来の情報配信技術として紹介されており、これに影響されたものと推測される。
ユーザの間では「ドキャ」、「ムキャ」、「ドリャス」、「DC」、ロゴマークの渦巻きから「なると」など様々な略称が用いられたが、セガ自身が「dricas.com」というドメイン名を取得したこともありドリキャスが公式の略称となった。

発売時期の近いゲーム機には、前世代機セガサターンのライバル機のひとつであったNINTENDO64や、本機より後に発売され本機のライバル機となるPlayStation 2などが挙げられる。

さまざまな要因からPlayStationシリーズとのシェア争いに再び惨敗し、2001年1月にセガはドリームキャストを含む家庭用ゲーム機の製造とプラットフォームからの撤退を表明。

ドリームキャストは事実上セガ最後のゲーム機となった。

MIL-CD
生産当初のドリームキャストには、MIL-CD(ミルシーディー)再生機能が搭載されていた。
MIL-CDとは「見るCD」の意味で、メディアは通常のCDプレーヤーでは音楽CDとして再生できるほか、ドリームキャストで再生した場合には独自のコンテンツを視聴できるというものである。
ただし、MIL-CD対応メディア製品は数種類しか発売されなかった。

MIL-CDの実装原理はCD EXTRAと同一で、マルチセッションディスクとなっており、1番目のセッションに音楽が、2番目のセッションにデータが入っている。ドリームキャストは、この2番目のセッションを読み取って独自のコンテンツを実現していた。

しかし、一部ユーザがこのデータ部分を利用し、ゲームデータをCD-Rにコピーしたディスクを動作させることに成功した。
これはコピーディスクを違法に流通させるきっかけとなった。

また海外のユーザを中心に、自作ソフトをMIL-CD機能を使用し動作させる試みが存在した。

自作のソフトにはDivXプレーヤーやメガドライブソフトのゲームエミュレーターなどがあり、これらは実際に実用的なレベルでの動作に成功していた。
2012年現在でも、非ライセンスの商業ベースやいわゆる同人レベルの作品は多数が開発・発表されており、セガ側の思惑とは別にコアユーザ達にとっては現役機として浸透している。

広告戦略
ドリームキャストのPRでは、大川功会長が懇意にしていた秋元康を宣伝プロデューサーに招聘。
先代のせがた三四郎人気を引き継ぐ形で、ゲーム機そのものよりも出演者のコミカルな演技などインパクトを前面に押し出した様々な展開が図られた。

宣伝広告費はセガとしては空前規模の130億円を投じる事になった。

まずティーザー広告として1998年5月21日、22日に新聞での全面広告が打たれた。

セガは倒れたままなのか
セガは倒れたままなのか

21日は「セガは倒れたままなのか」のコピーで戦国武将が討ち死にした場面の写真、22日は「11月X日 逆襲へ、Dreamcast」のコピーとともに、討ち死にしたと思われた武士たちが一斉に立ち上がる写真であった。

11月X日 逆襲へ、Dreamcast
11月X日 逆襲へ、Dreamcast

このタイミングでの発売予告は『Dの食卓2』を開発していたという。

同年6月にセガは秋元を社外取締役に選任。
6月19日に「湯川専務」シリーズが開始され、小学生のグループ(子役)が「セガなんてだっせーよな!プレステのほうがおもしろいよな!」「帰ってプレステやろうぜ〜!」などのフレーズを湯川英一に言い放つ自虐的なCMが放送され、話題になった。

CMには湯川英一を筆頭とした当時のセガ現役役員が出演し、特に「湯川専務」は役者と見違えるようなコミカルな演技から一躍時の人となった。
この第一弾のCMは事実上プレイステーションとの比較広告であり、登録商標である「プレステ」の使用許諾をSCEから得られたことで実現している。
また、その内容自体がかつて「ビデオ戦争」(VHSとβの規格争い)でソニーが規格争いの敗北を自ら認めた新聞広告(1984年の「ベータマックスはなくなるの?」)と類似した内容であり、関心を引き寄せる一方、皮肉にも発売後のマーケティングの失敗をセガ自らが予見した作品となってしまった。

本機発売直前となる1998年11月にセガ・大川功・秋元康が共同出資し、株式会社エイティーワン・エンタテイメントを設立。
秋元が代表取締役社長となり、ドリームキャスト関連の宣伝プロモーションを事実上同社へ移管した。

発売に前後してDAIBAッテキ!!・DAIBAクシン!!といった同番組発のアイドルであるチェキッ娘出演番組(事実上の冠番組)の1社提供や、発明BOYカニパンシリーズに約1年間継続してスポンサードを行い、本機発売直前の11月25日には秋元のプロデュースで湯川英一が「湯川専務」名義で日本コロムビアから企画盤のシングルCD「Dreamcast」をリリースした。

本機発売前からマスコミに湯川や秋元のインタビューを中心にドリームキャストが取り上げられるなど社会的に話題を作り上げ、てこ入れを行った。

11月27日の発売直後にはジャニーズJr.(当時)の滝沢秀明が湯川専務と共にリヤカーで本機を売り捌く作品も放送された。
湯川の執行役員常務への降格に伴い「湯川元専務」シリーズとなり継続したが、1999年春放映の8話で事実上打ち切られた。

1999年6月の本体希望小売価格値下げ発表後、新たに「後藤喜男」なる中年男性が出演し、コンパを盛り上げるシチュエーションのCMが放映されたが、『俺の名前を知ってるかい? ゴトウヨシオと言うんだよ♪』と名前をアピールするだけの内容であり謎めいていた。
後藤喜男は制作プロダクションジョイマンの代表者兼プロデューサーで秋元康の知人という間柄だった事が明らかにされている。

これ以降、本体のTVCMは制作されなくなり、TVCMはソフトタイトルのみとなる。

ヨーロッパではイングランドプレミアリーグのアーセナルFCのスポンサーとなり、胸にDreamcastのロゴを入れていた。

発売直前から2000年にかけてセガ提供のテレビ番組のクレジットは「SEGA」ではなく「Dreamcast」だった。

ドリームキャスト
ドリームキャスト

歴史
開発中のコードネームは「KATANA」。
1996年頃から開発が行われ、1997年に日本経済新聞が次世代機を開発している旨をスクープし、日立製作所のSH-4がセガの次世代ゲーム機に搭載される旨も報じられ、セガサターン後継機の存在が明らかとなった。
11月には大川功会長がマイクロソフトと開発中である旨のコメントを出した。

1998年5月21日の朝刊でティーザー広告が掲載された当日午後に「ドリームキャスト」の正式発表が行われた。広告戦略においてハードとメーカーの知名度が共に急上昇し、「売りに出せば売れる」という人気を博したかに見えた。

しかし、本体発売前から肝心の供給体制が整わないという懸案事項が生じていた。英・VideoLogic(現:en:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(現:ルネサス エレクトロニクス)が共同開発したグラフィックスチップPowerVR2の開発が予定よりも遅れたことが発端となり、ソフトウェアの開発に遅れが生じ始めた。
さらにチップの歩留まりが向上せず、十分な量を確保できなかったことが致命的だった。
需要に見合った増産が望めず、発売日を当初予定の11月20日から27日に一週間延期し、初回出荷量の大幅減、予約キャンペーンも急遽取りやめといった「売りたくても売りに出せない」という苦悩が続く非常事態となった。

事態は深刻さを極め、キラーソフトとして本体と同時期に投入予定だったローンチタイトルの多くが発売延期となった。
自社の看板タイトル『バーチャファイター3tb』はなんとか間に合わせ、初回出荷分は即日完売となったものの、PowerVR2の開発の遅れがもたらしたソフト不足が最後まで足を引っ張り、販売台数は予定を下回る結果に終わった。

さらにPowerVR2の歩留まりが向上しない事には、増産によるシェア拡大も望めない状況にあった。

この影響を理由として、CD発売からわずか15日後の1998年12月10日付けで湯川英一(専務執行役員)を常務執行役員へ降格させる人事を発表し、以後、「湯川元専務」の名でCMやマスコミに出ることになる(翌年、卸子会社セガ・ミューズ会長に就任)。

ソフト面では『バーチャファイター3tb』『セガラリー2』、前機のセガサターンでは発売しなかったセガの看板タイトル『ソニックシリーズ』の新作『ソニックアドベンチャー』を本体発売から1ヶ月後に発売させる等の戦略を取った。
しかしながらハードとソフトの供給の遅れがクリスマス商戦を挟んだ市場形成期の成長に急ブレーキをかけ、その最中に『大乱闘スマッシュブラザーズ』『ファイナルファンタジーVIII』など他ハードでのメガヒットタイトルが発売された事でライトユーザーの購買意欲が消極化した。

展開期
販売台数のてこ入れ策として、1999年3月20日から4月11日にかけてインターネット通信機能での応募者から抽選1万名に現金1万円(総額1億円)をプレゼントする『湯川元専務のお宝さがし』キャンペーンを実施。
1999年6月1日に開催した事業発表会「SEGA New Challenge Conference ’99」席上で、6月24日から定価を29,800円から19,900円へ値下げすることを発表した。

値下げ相応の機械部品のコストダウンは図られていないため、1台売るごとに1万円の赤字となってしまった。

1999年下期は『シーマン』・『Jリーグプロサッカークラブをつくろう!』・『ソウルキャリバー』・『バイオハザード2』など売上本数30万本越えの単発的なヒットはあったものの、ソフト不足に悩まされる状況は変わらず、ハードの売り上げを牽引するキラーソフトの供給が続かなかった。

シーマン
シーマン

本体の発売当初からその内容が注目を浴びていた「シェンムー」「Dの食卓2」が度重なる延期により1999年12月発売となったことがライトユーザーの関心を失わせた格好となりヒットには至らず、既に確固たる利用者層を積み上げていたPlayStationと2000年3月4日に発売された後継機PlayStation 2の前に再び苦戦を強いられた。

2000年は一部タイトルで、TSUTAYAと提携し東京都内の一部店舗でのゲームレンタル開始や、1-2千円前後の廉価で機能限定版(体験版に近い)を販売し、ドリムを用いてアクティベーションの権利を購入(VMに課金データをダウンロード)することで通常版と同等にプレイできるシェアウェア型の「@barai(アットバライ)」というシステムをISAOと共同開発し数タイトル発売したが、どちらも物珍しいままで終わった。

6月に入交昭一郎代表取締役社長が同副社長に降格、秋元康が社外取締役を退任、大川功会長が代表取締役社長を兼務し、大川功によるワンマン経営となった。
『ルーマニア#203』、『サクラ大戦1・2』、『ファンタシースターオンライン』などセガオリジナルタイトルを中心としてソフトのリリース数は最多となったが、前期に存在した30万本超えのタイトルは1つも無かった。

2000年3月にアメリカの半導体メーカーラムバス社が、日立(現:ルネサス・テクノロジ)製のSDRAM・SuperHなどが特許を侵害している(→サブマリン特許)として、それを搭載した本機の米国輸入差し止めの仮処分をアメリカ国際貿易委員会へ申請する騒動が発生し、海外販売が危ぶまれたが、日立がラムバス社と和解したことでセガには影響が及ばなかった。

末期
撤退への最終的な決断がされたのは2000年の年末商戦の結果を踏まえた上であり、北米では『NBA2K1』、『NFL2K1』というミリオンセラーが期待出来るタイトルとの本体同梱版がリリースされたが、勢いを取り戻す事は出来なかった。

2001年1月23日午前に時事通信社などの報道でセガがPlayStation 2へのゲームソフト供給とドリームキャストの生産中止がリークされ、同日のセガ株価は一時ストップ高となる。

翌24日には日本経済新聞朝刊でも一面記事で後追いされ、セガは同月25日に報道の内容を一部認めるコメントを出したことで、セガおよびCSKの株価は乱高下することになった。

そして1月31日の15時過ぎ(株式市場終了後)にパレスホテルで「構造改革プラン説明会」と題した記者会見を開き、大川会長兼社長ら役員同席のうえで家庭用ゲーム機事業から撤退を正式発表する。

コンシューマ向けゲーム事業についてはPlayStation 2やニンテンドーゲームキューブ・ゲームボーイアドバンス、Xboxなど他社プラットフォームへのソフト供給へ転換することにした。

これに伴い本体200万台の不良在庫整理損(棚卸資産等処分損)や海外販売子会社の清算などが発生し、セガの2001年3月期連結決算で約811億円という当時のゲームメーカーでは最大規模の特別損失を計上する。

それまでもドリームキャストの立ち上げと売上不振から1998年3月期以降3期連続で約350-430億円の連結純損失を計上しており、本来であればセガの存続が危ぶまれる状況に陥った。
しかしながら翌2月1日に大川功が私財約850億円をセガに寄付する事を早々に表明したことにより、最悪の事態は回避された。

大川功は2000年までに私財拠出やCSKを通じて既に1000億円以上の資金提供を第三者割当増資引受などで行い、セガの財務面での下支えに寄与した。
しかしその後体調が悪化し、ドリームキャストの終焉とセガの再建を見届けるような形で同年3月16日に逝去する。

同月末には全世界で売れ残った本機の在庫200万台を日本では9,900円という投げ売り状態の破格の定価に改定することにした。

更にセガを取り巻く情勢を自虐的なパロディとして反映させたシミュレーションRPG「セガガガ」がこのタイミングで発売され、これらは1998年の本体発売前の広告内容から続く一連の衝撃的な話題として報道番組や新聞で報道された。


SGGG オープニング

なお、同月に発売された「サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜(約34万枚)」および翌2002年3月発売の「サクラ大戦4 〜恋せよ乙女〜(約25万枚)」がその年の最多売上タイトルとなった。

再値下げ後、日本市場では皮肉にも売れ行きが好調となったが、2002年前半には一度も優位に立つことなく量販店のゲーム機売場から姿を消した。

2007年にこのドリームキャストを最後にセガは家庭用ゲーム機の製造・販売事業から撤退し、家庭用ゲーム市場においては他社のゲーム機向けソフトの開発と販売に専念することとなる。

撤退後
家庭用ゲーム機としての役目をほぼ終えたが、そのアーキテクチャ自体は評価が高く、ほぼ同設計の業務用基板「NAOMI」が長く現役であったほか、サミーの業務用基板「ATOMISWAVE」にもその構造が転用され、こちらも北米等で長く活躍した。

また、本体や周辺機器の製造が終了してからも2005年頃までは恋愛ゲーム中心にリリースが続いた。

本体そのものは市場撤退後も直販のドリームキャストダイレクト(現:セガダイレクト)上で新品販売が継続され続け、国内流通品の在庫が尽きた2002年6月頃から海外市場版の本体を日本版のパッケージに巻き直したリアセンプル版の出荷を開始した。

リアセンプル版の在庫が無くなった2004年からは修理品の部品を再組立した再生品(リファビッシュ品)の販売が開始された(経緯の説明と通常の1年修理保証対象の断り書きが掲載され、パッケージ上も「再生品」ステッカーを貼付)。

この手法により在庫に余裕が生じた事から、一部の新作ソフトが発売される度にソフトとポスターなどをセットにした限定版がセガダイレクト上で発売される珍現象が生じた。

恋愛ゲームが発売されなくなった後も、NAOMI基板で出たアーケード用シューティングゲームの移植を中心に年2本程度のペースで新規ソフトが発売されており、新規タイトルが発表になるたびに「ドリームキャスト最後のソフト登場」と話題となる。

2007年3月8日にドリームキャスト最後のソフトとなる『カラス』が発売。
本体の発売から9年という長い歴史に終止符を打った。

PSE問題の影響により中古品市場での本体の入手はかなり困難となることも懸念されたが、2006年4月以降も中古店でPSEマークつきで販売されている。
セガによる本体ならびに本体付属周辺部品の有償修理は、2007年9月28日佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分を以て終了している。

正規ライセンス品ソフトの発売が途絶えた後も非正規ライセンス品のソフトが主に海外で制作され続け、一部のソフトは商業的に流通ルートに乗っており、2012年現在日本国内のゲームショップなどでも購入ができる。

2007年12月、セガオブアメリカが「Dreamcast」の商標登録の更新を申請した。
一部で「後継機が開発されているのでは」と噂されたが、セガオブアメリカは「登録内容に問題があったためであり、コンソールビジネスに戻る予定は無い」と否定した。

2010年、セガにおいて「#セガ・ドリームキャスト復刻プロジェクト」を立ち上げ、一部ソフトがダウンロード販売形式で販売・配信する試みがされている。

販売手法
ドリームキャストはPlayStationの販売方法を徹底的に模倣。
卸子会社のセガ・ミューズを通じて「再販売価格維持」、「中古品売買禁止」、「同業者間の在庫転売禁止」の3点を小売店に強制した。
当時、SCEが採用したこの販売方法は独占禁止法違反で公正取引委員会と係争中だったが、メーカーの圧倒的支持を受けており、SCEが独占禁止法違反の是非を争っている間にその販売方法を模倣すればスクウェア (ゲーム会社)を始めとする有力メーカーの支持を一気に奪えるという計算が働いたからである。

しかし1999年11月にセガに対しても独占禁止法違反容疑が表面化した。
事件の処理に困ったあげく2000年8月にはセガ・ミューズの業務を本社に丸投げしてペーパー会社化するという「脱法行為」ギリギリの方法で摘発を逃れて一部から批判を浴びた。

抜粋:http://ul.lc/57b2(wikipedia)より

ドリームキャスト関連商品(外部リンク)

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