【今日の歴史】1590年8月4日の事【秀吉の天下統一】

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事実上、豊臣秀吉の天下統一が完成
事実上、豊臣秀吉の天下統一が完成

豊臣秀吉の天下統一が完成

1590年8月4日(天正18年7月5日)
北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、
小田原城が開城
小田原征伐完了により
秀吉の事実上の天下統一が完成。


豐臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
または、羽柴 秀吉(はしば ひでよし)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤
三英傑の一人

はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める
本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。


略歴
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたという。

当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表した。

信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、織田家内部での勢力争いに勝利し、信長の実質的な後継者の地位を確立した。

待った甲斐があったのかな?

大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させ天下統一を果たした。

太閤検地や刀狩などの画期的な新政策中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。

墨俣の一夜城金ヶ崎の退き口高松城の水攻め中国大返し石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

その後、慶長3年8月18日(1598年9月18日)秀吉の死で徳川家康が台頭し、関ヶ原の戦いの結果、豊臣家は事実上諸大名に転落してしまう。

豊臣家と徳川家の対立は深まり、1614年から1615年の大坂の陣で豊臣家は滅亡に追い込まれた。

天下統一
天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。

同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に関東へ遠征後北条氏の本拠小田原城を包囲した。

小田原城は堅城として知られるが、3か月の篭城戦の後に、北条氏政・北条氏直父子は降伏した。

北条氏政・北条氏照切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。

これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。

後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた

毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名は滅ぼすことはできず、臣従させるにとどまった。

徳川氏はに至っては、石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった。


秀吉の蔵入地222万石というのは、多くの直臣に所領を分け与えた残りであり、一方の家康の250万石は直臣に分け与えた所領もあわせての数字であり、純粋な石高で家康が秀吉を上回る訳ではない。

家康自身の蔵入地約100万石であるので秀吉の方が大きい。


天正19年(1591年)、後継者に指名していた鶴松が病死した。

そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。

ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。

この年、重用してきた茶人・千利休に自害を命じている。

利休の弟子である古田重然細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。

その首一条戻橋に晒されたとされる。

豆知識
同年には東北で南部氏一族の九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こした(九戸政実の乱)

南部信直の救援依頼に、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷浅野長政石田三成九戸討伐軍を派遣した。

東北諸大名もこれに加わり6万の軍となった。

戦いの後九戸政実実親降伏した。

九戸氏は豊臣秀次に一族とともに斬首され滅亡し、乱は終結した。

秀吉に関しては、逸話がたくさんあるので気になる人は抜粋元のWikipediaを読むと楽しいですよ^^
指が6本あったとか色々あります。

抜粋:http://ul.lc/4uew(wikipedia)より

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