【都市伝説の元】ホープダイヤモンド(Hope Diamond)

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ダイヤモンドの産地として有名だったインド南部のコラールという町で、農夫が発見しました。
ダイヤモンドの産地として有名だったインド南部のコラールという町で、農夫が発見しました。

ホープダイヤモンド(Hope Diamond)は、現在スミソニアン博物館のひとつである国立自然史博物館に所蔵されている45.50カラットのブルー・ダイヤモンド。

いわゆる「持ち主を次々と破滅させながら、人手を転々としていく『呪いの宝石』」として有名であるが、その伝説は大幅に脚色されている。

現在では、ホープダイヤはその周りに16個、鎖に45個のダイヤをはめ込んだ白金製のペンダントの中央を飾っている。

伝説のブルー・ダイアモンド「ホープ」に紫外線を当てると…。
伝説のブルー・ダイアモンド「ホープ」に紫外線を当てると…。

紫外線を当てると、1分以上に渡って赤い燐光を発する。
ダイヤモンドに紫外線を当てると発光するのは珍しくないが(ダイヤモンドのうちおよそ1/3は紫外線を当てると発光する)、赤くしかも1分以上も光り続けるというのは極めて珍しく、現在のところその原理は解明されていない。

 青い色の原因は、不純物として含まれるホウ素が原因であることが解析の結果判明したが、ダイヤモンドが生成される地下深くでは、ホウ素はほとんど存在しないとされている。
このため、「なぜダイヤモンドの生成時にホウ素が含まれたのか?」についても謎となっている。

歴史
9世紀頃、インド南部のデカン高原にあるコーラルという町を流れる川で、農夫により発見される。

1660年(または1661年)フランス人ジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier)がダイヤを購入。112と3/16カラットあった。

「呪いの伝説」ではヒンドゥー教寺院に置かれた女神シータの彫像の目に嵌められていた2つのうちの1つを盗み、それに気づいた僧侶があらゆる持ち主に呪いをかけたとされる。
また、タヴェルニエは「直後に熱病で死んだ」あるいは「狼に食べられて死んだ」ことになっているが、そのような事実はなく、84歳まで生きながらえ、死因は老衰であった。

1668年タヴェルニエからフランス王ルイ14世がダイヤを購入。
カッティングされ67と1/8カラットの宝石となり、「王冠の青」あるいは「フランスの青(フレンチ・ブルー)」「ブルーダイヤモンド」と呼ばれた。
このダイヤは王の儀典用スカーフに付けられた。

1749年フランス王ルイ15世は、このブルーダイヤを自らの金羊毛騎士団用ペンダントに付け直した。

1792年9月11日、6人の窃盗団が王室の宝玉庫に侵入し、ブルーダイヤモンドを含む宝石類を強奪。
当時はフランス革命のさなかで、国王一家は囚われて幽閉されていた。
窃盗団の一人、士官候補生ギヨは、宝石類を後にルアーブルやロンドンで売りつけようとしていたことがわかっており、実際に1796年には別の宝石を売っているが、ブルーダイヤに関する記録はない。

1812年9月イギリスのダイヤモンド商ダニエル・エリアーソンがあるダイヤモンドを所有していたことが記録に残っている。
このダイヤが「ブルーダイヤモンド」から切り出されたものであることが、2005年にスミソニアン協会によって、また2008年にはフランス国立自然史博物館によって、最終的に確認された。
これが今日につながるホープダイヤモンドである。
このタイミングが窃盗からちょうど20年後であったことに、犯罪の時効との関連を見る向きもある。
また、イギリス王室の記録にはないが、ジョージ4世がこのダイヤを所有していたと信じる人もいる。

1824年ヘンリー・フィリップ・ホープの宝石コレクションとして記録される。
彼はこのダイヤをブローチに取り付けて、義理の姉妹に当たるルイーズ・ベレスフォートにダイヤをしばしば貸し出し、彼女は社交パーティでそれを使った。

「呪いの伝説」では「1830年頃にロンドンの競売で1万8000ポンドで落札した」とされる。

1839年ヘンリー・フィリップ・ホープ死去。
以後3人の甥が10年以上に渡ってこのダイヤを含む宝石の所有権を裁判で争った。
その結果、ヘンリー・ホープがこの宝石の相続人となる。
ヘンリー・ホープは、1851年のロンドン万博と1855年のパリ万博にこのダイヤを展示したが、普段は銀行の大金庫に保管していた。

1862年12月4日ヘンリー・ホープ死去。
未亡人のアデーレがこのダイヤを引き継ぐ。

「呪いの伝説」では「ヘンリー・ホープは生涯独身だった」とされるが、事実ではない。

1884年3月31日アデーレ死去。

1887年ヘンリーとアデーレの孫(娘の子息)であるヘンリー・フランシス・ホープ(以下フランシス・ホープと略記)が、このダイヤを「ホープ・ダイヤモンド」と名付けることを条件に、アデーレの遺産類を相続。
しかしそれは終身保有権に限られており、裁判所の許可なしにはホープダイヤの売却はできなかった。

1894年11月27日フランシス・ホープ、アメリカ人女優のメイ・ヨーヘと結婚。
メイは「ホープダイヤをいつも社交界で身につけ、女優業のために精巧な複製も作った」と証言したが、フランシスはこれを否定している。

1896年フランシス・ホープ破産。
ホープダイヤの売却を迫られ、メイもそれを手助けした。

1901年フランシスにホープダイヤの売却の許可が下りるが、メイは元ニューヨーク市長の子息のもとに走り、翌年フランシスとメイは離婚。
フランシスは1904年に再婚する。
再婚した夫人は1912年に亡くなり、しばしば「呪いの結果」といわれるが、3人の子どもをフランシスとの間にもうけている。
ホープダイヤは1902年頃に2万9000ポンドでロンドンの宝石商アドルフ・ウィルが買い取り、アメリカのダイヤモンド商サイモン・フランケルに売却する。
フランケルはダイヤをニューヨークに持ち込み、14万1032ドル相当と評価される。

1908年フランケル、ホープダイヤをパリのソロモン・ハビブに売却。

1909年6月24日ハビブの債務弁済のためオークションに出され、約8万ドルでパリの宝石商ローズナウがホープダイヤを落札。

1910年ローズナウ、ホープダイヤを55万フランでピエール・カルティエに売却。

1911年カルティエ、ホープダイヤ宝石を装飾し直してアメリカの社交界の名士エヴェリン・ウォルシュ・マクリーンに売却。
マクリーンは当初ホープダイヤを使わなかったが、やがて社交の場でいつも身にまとうようになった。
また、ペットの犬の首輪にこのダイヤを付けていたこともある。

1947年マクリーン死去(61歳)。
彼女は相続人に、自分の孫の将来を考えて今後20年間このダイヤを売却しないよう遺言した。

「呪いの伝説」では「マクリーンは教会で祈祷させたが一族全員が死に絶えた」とされるが、孫がいることでもわかる通り事実ではない。

1949年相続人はマクリーンの債務の弁済に、ホープダイヤを売却する許可を得て、ニューヨークのダイヤモンド商ハリー・ウィンストンに売却。
ウィンストンは「宝石の宮廷」と名付けたアメリカ国内での巡回展や、各種チャリティーパーティーでホープダイヤを展示したが、売却はしなかった。

1958年11月7日ウィンストンはスミソニアン協会にホープダイヤを寄贈。
ウィンストンは1978年に82歳で病没。

2009年8月19日スミソニアン協会は、国立自然史博物館創立50周年を記念して、一年間ホープダイヤをペンダントから外して単独で展示すると発表。2010年、2007年にフランスで発見された鉛製の模型などを参考にして、ルイ14世時代の「フランスの青」としてのホープダイヤのキュービック・ジルコニア製レプリカがフランス国立自然史博物館により3年かけて復元される。
さらに218年前に盗難・破壊されたルイ15世時代の金羊毛騎士団用ペンダントとして復元され、6月30日にフランスで公開された。この復元についてのドキュメンタリーが2011年に全世界で公開された。

呪いの伝説
いわゆる「呪い」の伝説では、上に注記した以外に次のような歴史が語られている。

ペルシア軍のインド侵攻の際ペルシアに渡り、軍の司令官が国王に献上する。
農夫はペルシア軍に殺害される。
司令官は親族のミスが理由で処刑 国王は謀反で殺される。

フランス時代 ルイ14世が宝石を入手した頃からフランスの衰退の一端の兆しが現れ始めた。
ルイ14世以降のフランス経済は停滞し、フランス革命の原因となっている ルイ15世は天然痘で死亡 ダイヤの持ち主となったルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、そろってフランス革命で処刑された。
ちなみにマリー・アントワネットの寵臣ランバル公妃は、このダイヤを度々借りていた。
ランバル公妃は革命軍によって惨殺された。

1792年の窃盗団は出所を不明にするためカッティングさせた後、アムステルダムの宝石店に売り飛ばす。
宝石商の息子がダイヤを横領し、宝石商はそのショックで死亡 盗んだ息子も自殺。

ホープ家の手を離れたあとの所有者 ホープ家の崩壊後、フランス人の宝石ブローカーが購入するが発狂した挙句自殺 パリのレヴュー劇場の女優、ラドル嬢が買い取るが、舞台上で愛人(ロシア大公カニトウスキーとされる)に射殺され、その愛人も革命家に殺される。

オスマン帝国のスルタンに渡るが革命が起きて失脚 ギリシア人の宝石ブローカーに渡るが自動車事故で家族全員が死亡。

これらの登場人物のうち、フランス王室の3人、ランバル公妃、オスマン帝国のスルタン、窃盗団以外の大部分が実在したという確実な根拠がない。

「呪い」の話は、1909年にロンドン・タイムズの6月25日号において、パリの通信員が「悲惨な最期を遂げた」とする架空の所有者を多数含んだ記事を寄せたのが最初であるとされる。

さらにこれらの伝説を拡大する役割を果たしたのが、フランシス・ホープと離婚したメイ・ヨーヘだった。
彼女は離婚後の愛人と別離し、ダイヤを愛人に奪われたと主張したり、自分の不運がダイヤのせいだと決めつけた。(不思議なことに、その愛人と再びよりを戻して結婚、再度離婚した)
2度目の離婚後、メイは「ダイヤモンドの謎」という15章からなる本を他の執筆者の助けを借りて書き上げ、その中にさらに架空の登場人物を加えたのである。
ついには彼女は自分の書いた本をベースにした映画を作らせ、それにフランシス・ホープ夫人役で主演し、ここでも話の誇張と人物の追加をしている。
メイは映画の宣伝と自分のイメージアップのためにホープダイヤの模造品を身につけていた。

また、マクリーンはエカチェリーナ2世などの所有者を加えて話を脚色していたという。

大きさ
世界中を旅した宝石だけあって、その大きさはころころと変わっている。

具体的にいうと以下のとおり。
112.50カラット―ルイ14世購入時
69.03カラット―14世がハート型にカットさせた為
44.52カラット―今に伝わる大きさ。どの時点でカットされたかは不明。

逸話
ウィンストンはまったく呪いを信じず、ジョークのネタにしていた。以下の逸話が残っている。

ウィンストン夫妻は共に遠出をすることになるが、ちょっとした予定が狂い、妻のみが別の旅客機に移動した。
妻がキャンセルした席、つまりウィンストンの隣の座席に代わりに乗ってきた男は、安心したように隣のウィンストンに話しかけてきた。

「実は、私が乗った旅客機に、あのホープダイヤの持ち主であるハリーウィンストンの妻が乗り合わせていると聞いたのでね。慌てて便の変更をしたってわけですよ…いやまったく、この席がキャンセルで空いてくれて本当に良かった。これで安心ですな」

ウィンストンは笑って「それはそれは」と答え、ホープが入ったトランクを撫でたのみだったが、飛行が終わり席を立つ際、名前を明かし相手を大変驚かせたという。

抜粋:http://ul.lc/4xp3 (wikipedia)より

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