徳川家康生誕日
徳川 家康 / 松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
江戸幕府の初代征夷大将軍。
三英傑の一人。
海道一の弓取りの異名がある。
家系は三河国の国人土豪・松平氏。永禄9年12月29日(1567年2月18日)に勅許を得て、徳川氏に改めた。
松平元信時代からの通称は次郎三郎。幼名は竹千代(たけちよ)。
本姓は私的には源氏を称していたが、徳川氏改姓と従五位の叙任に当たって藤原氏を名乗り、少なくとも天正20年(1592年)以降にはふたたび源氏を称している。
概要
徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。
家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した。
家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年12月26日(1543年1月31日)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。
父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。
幼名は竹千代。
松平氏は弱小な一地方豪族であった。
家康の祖父・松平清康の代で中興したが、清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により清康の嫡男・広忠が命を狙われ、伊勢に逃れる事態により衰退。
帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。
しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、同盟者であった戸田康光に奪われ、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう。
竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。
こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏(今川義元)の元で人質として忍従の日々を過ごした。
この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信(もとのぶ)と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康(もとやす)と名を改めた(「元」は今川義元からの偏諱)。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川氏(義元の子・氏真)と決別し、信長と同盟を組んだ(清洲同盟)。
この際、(義元からの偏諱(一字)を捨てる意味で)名を元康から(松平)家康に改め、信長の盟友(事実上は客将)として、三河国・遠江国に版図を広げていくこととなる。
永禄9年(1567年)には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった。
以後近江、遠江、三河などを転戦し、天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、神流川の戦いにより空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって関東の後北条氏、越後の上杉氏と争い(天正壬午の乱)、この二ヶ国を手中にしてさらに勢力を広げた。
天正12年(1584年)、信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉との対立が深まり、小牧・長久手の戦いで対峙した。
この戦いで家康は軍略的には勝利したものの、政略的には後れをとり、しかし屈服せずに講和。
豊臣秀吉が実母を人質にさし出した後に、上洛して豊臣氏に臣下の礼をとった。
天正18年(1590年)、小田原征伐において関東を支配していた後北条氏が敗北し退けられた後、秀吉から関東への領地替えを命じられ(関東移封)、長年の根拠地を失ったものの、豊臣政権の下で最大の領地を得ることとなり、五大老の筆頭となった。
秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて対抗勢力に勝利し、その覇権を決定づけた。
慶長8年(1603年)には、後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開き、その支配の正当性を確立させた。
慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。
慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の陣において豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした(元和偃武)。
元和2年(1616年)、駿府城にて死去する。享年75。
その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)。
家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として薬師如来を本地とする神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」とも呼ばれて、信仰の対象となった。
また、江戸幕府の祖として「神祖」、「烈祖」などとも称された。
人物・逸話
身長
松平家菩提寺大樹寺に残された位牌は故人の身長と同じ大きさに作られており、それによると身長159cmであるとされる。
現代の男性としては小柄だが、当時においては平均身長に相当する。
家康公遺訓
家康の遺訓として
「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」
という言葉が広く知られているが、これは偽作である。
明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が、徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。
これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。
これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。
江戸時代は禁書であった。
一説には偽書とされている。
武術の達人
剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していた。
剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流(『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流)剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に姉川の戦いから7年間師事、文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩(柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退)を召抱える、塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。
ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流を学んでいる。
小田原征伐の際に橋を渡る時、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。
豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。
弓術については三方ヶ原の戦いにおいて退却途中に、前方を塞いだ武田の兵を騎射で何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。
鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100メートル)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。
また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。
好学の士
家康の愛読書は、『論語』『中庸』『史記』『漢書』『六韜』『三略』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』などの書物だと伝えられている。
家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。
また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。
反面、漢詩や和歌、連歌などの文学は苦手だった。
家康は古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。
これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。
多趣味
鷹狩りと薬づくりが家康の趣味として特に有名であるが、非常に多くの趣味があった。
鷹狩は、府中御殿に滞在しながらお鷹の道で行われたとの記録が残っている。
薬づくりは、八味地黄丸など生薬調合以外にも、「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。
猿楽(現在の名称は能)は、若い頃から世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、『風姿花伝』で学び故実にも通じていた。
このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。
特に幸若舞を好んだという。
囲碁も本因坊算砂に師事、特に浅野長政とはよい碁敵だった。
自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂に顕彰されている。
将棋は大橋宗桂一世名人に慶長17年(1612年)に、扶持を与える。
この功績により、平成24年(2012年)の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される。
香道を好み、東南アジア各国へ宛てた国書の中で伽羅を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている。
なお有名な蘭奢待については使者を遣わし現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった。
新しいもの好き
南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。
日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、紀州東照宮には防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、渡辺守綱や榊原康政には南蛮胴を下賜し伝世している。
晩年の家康は、日時計、唐の時計、砂時計などを蒐集しており、時計が好きだったようだ。
また、けひきばし(コンパス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存し、家康が理系的資質を持っていたことが窺える。
芸事は好まない今川家での人質時代に今川義元に舞を所望されたが、猿楽にして欲しいと請い、見かねた家臣が代わりに舞っている。
当時は中世文化が非常に盛んだった駿府で育ちながら、京文化への関心は元々少なかったようである。
家康は社交の嗜みとして茶の湯の心得はあったようだが、家臣が茶の湯(現茶道)等に凝るのを好まなかった。
家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物の名物・大名物が目白押しだが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。
ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年に松平親宅と上林政重に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。
なお、親宅は家康へ初花を献上し、政重は後に宇治の茶畑の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。
家康が尊敬していた人物
家康は、中国の人物として劉邦、太宗、魏徴、張良、韓信、太公望、文王、武王、周公を尊敬している。
着目すべきはすべて周・漢・唐時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。
日本の人物では源頼朝を尊敬していた。
師は武田信玄
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。
軍令に関しては重臣石川数正の調略により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。
天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。
自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
容貌
祖父松平清康は美男子だったという記録があり、母系も美人揃いとされるため若い頃の家康も美男子であった可能性が高い。
家康に謁見したルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。
手相
「知能線」と「感情線」が1体となっている手相(=ますかけ線)だったと伝わる。
書画
『翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。
しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。
特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。
こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。
天正年間になると、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆のに委ねられていく。
しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。
家康は筆豆で、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認でき、家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、更に駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。
文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流を好み、藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、手紙でも定家流の影響をうけたやや癖の強い筆跡が窺えようになるが、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している。
絵も簡略な筆致の墨画が10点余り伝わっているが、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。
しかし、『寛政重修諸家譜』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。
健康指向
家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。
これは少しでも長く生きる事で天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳の時であり、長寿ゆえに手にした天下であった。
その食事は質素で、戦国武将として戦場にいた頃の食生活を崩さなかった。
麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。
決して過食することのないようにも留意していたといわれる。
酒は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。
生薬にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。
海外の薬学書である本草綱目や和剤局方を読破し、それをもとに自分で薬を調合していた。
調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。
腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸を特に好んで処方して日常服用していたという。
精力剤である海狗腎は家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている。
欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させたりもしている。
東照大権現の本地仏が薬師如来となった所以は家康のこの健康指向に由来している。
趣味の一つとされる鷹狩りに関して、司馬遼太郎は「運動が健康にいい事を知った日本で初めての人物かも知れない」と小説『覇王の家』の中で述べている。
寡黙な苦労人
家康の同盟者であった信長はよく人に裏切られたが、信長の場合は明智光秀、松永久秀、荒木村重などほとんどが織田家拡大後に加わった新参家臣であった。
それに対して家康は譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、当初、織田家の人質になったのも家臣の裏切りによってのこと。
家督相続後は三河一向一揆において後の腹心・本多正信らにも裏切られている。
また、小牧・長久手の戦い後には重臣・石川数正にも裏切られている。
働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず内向的で自負心が高い。
結束も縁故関係による所が大きい。
こうした家臣たちを統御していくには日頃からかなり慎重な態度が求められたようで、自然言葉数が少なくなったものと推察され、家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。
吝嗇
家康の吝嗇(けち・りんしょく)にまつわる逸話は多い。
ふんどしは薄黄色のものを使用した。
しかしこれは薄黄色だと汚れが目立たないため洗濯の回数が減るという理由からである。
家来にもこれを強いたが、武骨な三河武士は下帯は白を好み、この下知にだけは従わなかったとされる。
手洗いから出て懐紙で手を拭こうとした、懐紙が風に飛ばされたので庭まで追っていって取り返した(それを見て思わず笑ってしまった小姓に対し、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言い返している)。
新しい服をあまり買わず、洗濯して使っていたため、洗濯させられる侍女から新しい服を着てほしいと苦情が出たとき、天下のため倹約するのだと逆に説教した。
また、侍女から料理の漬物がしょっぱいという苦情が出たので料理人に問いただしたところ、今でも侍女たちはたくさんおかわりしているのに、おいしい漬物を出したら何杯おかわりするかわからないと答えられ、笑ってそのままにした。
侍が座敷で相撲をしている時に畳を裏返すように言った。
駿府の銭鋳所跡地を掘り返して、3年で運上金千両分の銅を回収した。
商人より献上された蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の不必要な豪華さに激怒し、直ちに壊させた。
代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた。
三河にいた時、夏に家康は麦飯を食べていた。
ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った。
厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした。
家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった。
蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった。この結果、家康は莫大な財を次代に残している。
『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。
普段は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しむことはなかった。
例えば『信長公記』に記された織田信長の接待においては京から長谷川秀一を招いて巨費を投じ、趣向を凝らした接待を行っている。
大井川の舟橋などは信長を感動させるものだったと記されている。
その他
居城家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期及び桶狭間の戦い後10年と短い。
幼少から持っていた洞察力
10歳の頃、竹千代は駿河の安倍川の河原で子供達の石合戦を見物した。
150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。
だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう。」と言った。
家臣は「何をおかしなことを言われるのですか。」と取り合わなかったが、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか。」と笑ったという。
肖像画
2012年、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開された。
家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。
信長の兄弟
『フロイス日本史』では、「信長の姉妹を娶り」とあり、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。
しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。
妖刀村正伝説
祖父の清康と父の広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。
また、嫡男の信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。
さらに関ヶ原の戦いのおり、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。
その槍を家康が見ている時に家臣が取り落とし家康は指を傷付けた。
聞くと、この槍も村正であったため家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。
これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになり、民間に残った村正は隠され時には銘をすりつぶして隠滅したという伝説がある。
影武者説
大坂夏の陣の際に家康は真田信繁に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。
一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。
大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。
「徳川氏」について
戦国時代から江戸時代の大名の佐竹氏の家中には、実際の得川氏の末裔がおり、親藩ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる大名の家臣の立場で徳川氏を堂々と名乗っていた。
抜粋:http://ul.lc/5bp9(wikipedia)より