【今日の歴史】1914年8月15日の事【パナマ運河とは?】

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青色の線が運行水路
青色の線が運行水路

パナマ運河開通

パナマ運河(Panama Canal
規模は全長約80キロ・メートル
最小幅91メートル最大幅200メートル
深さは一番浅い場所12.5メートルである。

海抜26メートルのガトゥン湖(運河の最高点)が存在するなど運河中央部の海抜が高いため、閘門(こうもん)を採用して運河の水位を上下させて通過させている(“水の階段”と呼ばれる)

概要
パナマ運河の通路は以下のようになっており、上り下りにそれぞれ3段階、待ち時間を含め約24時間をかけて通過させる。

カリブ海(地図上方)⇔ ガトゥン閘門 ⇔ ガトゥン湖(最高点) ⇔ ゲイラード・カット ⇔ ペデロ・ミゲル閘門 ⇔ ミラ・フローレス湖 ⇔ ミラ・フローレス閘門 ⇔ 太平洋(地図下方)

大西洋と太平洋とを結ぶ運河は、パナマ地峡の発見後すぐに構想された。

歴史
1534年スペインのカルロス1世(神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のカール5世と同一人物)が調査を指示した。
しかし、当時の技術力では建設は不可能であり、実際に建設されるまでにはこれから400年近い歳月が必要となった。

19世紀に入ると産業革命や蒸気船の開発などによって船舶交通が盛んとなり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実的な計画となった。

1848年にはカリフォルニアでゴールドラッシュがはじまり、アメリカ東部から大勢の人々が西海岸をめざしたが、当時大陸横断鉄道はまだなく、人々は両洋間の距離が最も狭まるパナマ地峡をめざして押し寄せた。

これらの人々を運ぶため、
1855年にはパナマ鉄道が建設され、両洋間の最短ルートとなった。

何度か運河計画が立てられたが、実際に着工したのはスエズ運河の建設者レセップスがはじめてである。
レセップスはスエズ運河完成後、パナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募り、当時この地を支配していたコロンビア共和国から運河建設権を購入。
フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始したが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航し、1888年には宝くじ付き債券を発行し資金を賄ったが、1889年にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄した。

1890年には運河の免許が更新されたが、1892年には上記宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模な疑獄事件が発生
パナマ運河疑獄と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなった。

パナマ運河会社の倒産によってフランスは運河建設から事実上手を引くこととなり、運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった。

太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えられた。

しかし、運河のルートはパナマルートニカラグアルートの二つの案があり、議会がまとまるまでには長い時間がかかった。

ニカラグアルートはニカラグア湖を使うことで掘削量を大幅に減らす利点があったからである。

しかし1902年ニカラグアで火山爆発が起こったことでニカラグアルートの不安が増大し、同年連邦議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定した。

当初パナマ地峡は自治権をもつコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくことを強く志向した。

1903年1月22日ヘイ・エルラン条約がアメリカとコロンビアとの間で結ばれる。
しかし、コロンビア議会はこれを批准しなかった。

1903年11月3日この地域はコロンビアから独立を宣言しパナマ共和国となったが、時の大統領セオドア・ルーズベルトのアメリカ合衆国は10日後の11月13日にこれを承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手した。

1903年から工事を始め、1905年から2年間は主任技師ジョン・フランク・スティーブンスが人夫へのマラリアや黄熱病の感染を防ぐためゴーガス医師蚊の駆除に尽力し、そして海面式運河に代わり閘門とガトゥン湖を作ることを着想した。

ナショナルジオグラフィックDVD「パナマ運河の完成を目指して」によると彼は道半ばにして謎の退職をすることになるが、結局3億ドル以上の資金が投入され、後任のジョージ・ワシントン・ゴースルツの下、予定より2年早く1914年8月15日に開通した。

Panama Canal Gatun Locksパナマ運河の高低差
出典:Wikimedia Commons(帰属:Stan Shebs)

運河収入パナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権アメリカに帰属した。
なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。

建設には日本人の青山士(あおやまあきら)も従事。
彼は帰国後、内務省の技官になり、信濃川大河津分水路補修工事荒川放水路建設工事に携わった。

豆知識
パナマ運河自体が一つの観光資源である。

パナマ運河通過できる船の最大のサイズはパナマックスサイズと呼ばれている。

第二次世界大戦時旧日本軍には極秘作戦の一つとしてパナマ運河爆破計画が存在した。
この計画は、同盟国ナチス・ドイツの敗戦が濃厚になり始め、不要となった米英蘭の連合軍大西洋艦隊の太平洋への回航が予想されたのである。
この艦隊を少しでも遅らせるために、パナマ運河を爆破し、時間稼ぎを行うというものであった。

パナマ運河には一部幅の狭い区間があり、船舶が自力で航行できないため専用の電気機関車を用いて船を牽引する。
この機関車には、日本の東洋電機製造製の車両が使用されている。
別の区間ではタグボートが曳航する。

パナマ運河の通航料は、船種や船舶の積載量、トン数や全長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めている。
1トンにつき1ドル39セント平均で54,000ドル。

2003年9月25日に通過した豪華客船「コーラル・プリンセス」号226,194ドル25セントを支払って以来、近年は船舶の大型化による通航料の最高額更新が続いている。

2008年2月24日には豪華客船「Norwegian Jade」号313,000ドル以上を支払った。

最も低額の通航料は、1928年パナマ運河を泳いで通過した、米国の冒険作家であるリチャード・ハリバートン(Richard Halliburton) が支払った36セントである。

米国土木学会によって、20世紀の10大プロジェクトを選ぶ「Monuments of Millennium」(1000年紀記念碑)の「水路交通」部門に選定された。
これは、20世紀最高の運河と認められたことを意味する。

「Monuments of Millennium」の他の部門では、「鉄道」部門英仏海峡トンネル「空港の設計・開発」部門関西国際空港「高層ビル」部門ではエンパイアステートビル「長大橋」部門ではゴールデンゲートブリッジなどが選定されている。

抜粋:http://ul.lc/4v3g(wikipedia)より

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