日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行
橘花(きっか)
orange blossom
第二次世界大戦末期に
大日本帝国海軍が開発していたジェット攻撃機。
エンジン開発は主に空技廠(海軍航空技術廠)が担当し、
機体を中島飛行機が開発製造した。
ネ12B装備型を「橘花」、ネ20装備型を「橘花改」
と正式には呼称する。
試作機はそれぞれ、
「試製橘花」、「試製橘花改」と呼ぶ。
海軍略符号は無い。
概要
8月7日に松根油を含有する低質油を16分間分だけ積んだ軽荷重状態で飛行を行い、12分間の飛行に成功する。
これが日本で初めてジェット機が空を飛んだ瞬間であった。
この時橘花には離陸用補助ロケット、アンテナ、前脚のカバーが装備されていなかった。
また、脚を出したままの飛行であった。
10日に陸海軍幹部が視察に来る中、燃料を満載しての第二回の飛行が予定されたが空襲で中止され、翌11日は悪天候で順延となり、実飛行は12日に行われた。
しかし離陸中に滑走路をオーバーランして擱坐。
機体を修理中に終戦を迎えた。
離陸失敗の原因は、離陸補助ロケットの燃焼終了による加速感の減少を、パイロットの高岡迪がエンジン不調と勘違いしたもので、離陸を中止しようと試みたが停止し切れず、滑走路端の砂浜に飛び出して脚を破損したものである。
本機はそのまま3日後に終戦を迎えた。
雲龍型航空母艦の三番艦の葛城に紫電改や烈風ではなく、ジェット機である本機を搭載する予定があったとも伝えられている。
終戦前には10機程度が量産状態に入っており、その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみであった。
完成していた2機は終戦直後に終戦に悲観した工場作業員によって操縦席付近が破壊されたものの、研究用に接収しようとしたアメリカ軍により修理が命ぜられた。
修理完了後その内の1機はアメリカ軍が接収し、メリーランド州のパタクセント・リバー海軍基地を経てスミソニアン航空宇宙博物館付属のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設に保管されていたが、現在同博物館別館の復元ハンガーに修復中状態で展示されている。
その説明文には最高速度696キロ(毎時432マイル)・着陸速度148キロ(毎時92マイル)・離陸滑走距離は500キロ(1102ポンド)の爆装をした全備状態時、離陸用補助ロケット使用で350メートル(1150フィート)と書かれている。
これは戦後アメリカ本土でテスト飛行したときのデータに基づく。
本機は爆撃による対艦攻撃を目的とした特殊攻撃機であり、桜花のように初めから特攻専用として設計された特別攻撃機ではなかったが、特別攻撃機を表す「花」の名称が付いている事や、当時の戦況を考えれば、特攻機として使う以外に用兵はなかったという意見もある。
これと似た思想の航空機に「剣」がある。
また軍部では、高価かつ高い生産技術を要すレシプロエンジンを特攻機に使用して使い捨てるより、極力温存を図って防空用迎撃機にこそ使用したいと考えており、技術面を克服して量産にさえ至れば、レシプロエンジンよりも安価かつ量産が容易なジェットエンジンこそ特攻機に搭載するエンジンに最適であると考えていた。
抜粋:http://ul.lc/4unf (wikipedia)より