アメリカ独立宣言
The Unanimous Declaration
of the thirteen United States of America
イギリス(グレートブリテン王国)によって
統治されていた13の植民地が、
独立したことを宣言する文書である。
1776年7月4日大陸会議(the Continental Congress)
によって採択された。
このため、7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日
として毎年盛大に祝われる。
概要
独立宣言は、基本的人権と革命権に関する前文、国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情に関する28ヶ条の本文、そして独立を宣言する結語の3部から成る。
中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。
その理論は、名誉革命を理論的に正当化したジョン・ロックの自然法論の流れを汲む。
自然法論については、長くなるのでWikipedia参照の事。
http://tiny.cc/yab4zx(リンク:Wikipedia)
1763年2月、フレンチ・インディアン戦争が終結すると、イギリス国王ジョージ3世とグレンビル内閣は、植民地アメリカへの課税と支配を強化した。
本国政府による植民地圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する不満を鬱積させ、本国からの離反機運の醸成をもたらす。
1772年11月、それぞれに独自の発展を進めていた13植民地は、連絡組織として通信連絡委員会を発足させる。
1774年9月、この委員会は第1回大陸会議(ジョージア植民地を除く12の植民地代表の集会)に発展し、本国政府との和解策を練った。
1775年4月、レキシントン・コンコードの戦いで、イギリス軍と植民地民兵隊の間に銃火が交えられ、独立戦争の火蓋が切られた。
1775年5月、第2回大陸会議が開かれ(全13植民地代表がそろう)、ここ武力衝突に至っても本国政府との和解の道を探っていたが、情勢は日増しに悪化していった。
1776年1月、独立論を訴えるトマス・ペインの著書『コモン・センス』が刊行されてベストセラーになると、住民の間でも植民地代表者の間でも、独立論は最高潮に達した。
同年6月7日、バージニア植民地代表のリチャード・ヘンリー・リーは大陸会議に『独立の決議』を提案し、これに基づいて同月10日、独立宣言起草委員会が発足した。
この委員会は、トーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、ロバート・R・リビングストンの5人で構成されたが、ジェファーソンが宣言案を起案(起草)し、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。
委員会案は大陸会議に提出されて、さらに多少の推敲がなされた。
そして、1776年7月2日、リチャード・ヘンリー・リーの『独立の決議』がまず可決され、『アメリカ独立宣言』は7月4日に採択された。
豆知識
アメリカがイギリスから正式に独立したのは、独立宣言から7年後の1783年「パリ条約」によって承認されてからである。
宣言公布当時、日本は江戸時代の鎖国中であったため、直接の影響は見られない。
抜粋:http://tiny.cc/ofc4zx(wikipedia)より